刑務所伝道のこと

「ほかの人を自分自身のように愛しなさい。」[レビ記19:17,18]

イエス様が律法の肝(きも)であると言われたのが、このところです。
確かに旧約聖書と新約聖書はつながっていることを再確認させられます。

我が国では刑事裁判において被害者家族の心情に配慮するとして、罪を犯した者に対して厳しい態度でのぞむ流れにあります。
この流れそのものに、ありのパパは異議はありません。
しかし的を外している部分があると感じています。

「罪を犯した人がいれば、ねんごろに戒めなさい。そうすれば憎しみや恨みは残らない。」[レビ記19:17]

ねんごろに戒めるとは、罪を犯した重大性を理解させることと、再犯を防止する教育を意味しています。
これが出来れば被害者家族に憎しみや恨みが残らないというのです。
これなしで極刑を課しても、遺族にはむなしさが残るだけではないのでしょうか。

良く聞かれることに「犯人が心から詫びてくれたら、私たち遺族はどんなに慰められるかわからない。しかし犯人には改悛の情は見当たらない。であるならせめて極刑をもってのぞんで欲しい」と言うものです。

ここにキリスト教の役割があります。
多くある宗教の中で、ただキリスト教だけが罪をはっきりさせた上で、贖いの道を示し、赦しと新生へと導き、神の子としてふさわしい歩みをなすようにと指導する信仰であるからです。
このような信仰は甘えの構造の中で生きている日本人にはなかなか受け入れにくいものですが、刑務所の塀の中にいる人たちにとっては、キリスト教が言っていることは、まさしく自分自身の現実にほかならないのです。
現に韓国やアメリカでは、教会の刑務所伝道が著しい効果を挙げています。
我が国も倣(なら)うべきではないでしょうか。

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