カウンセリング的アプローチとは

「お前たち律法学者は聖書を間違って解釈し、それを重い荷物のように人々に課しているが、人々がそれを実行できるように指一本力を貸そうとはしない。」[ルカ11:46]

聖書の説教には三パターンあります。

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1.「聖書を説明して、それで終わり。あとはご自由に」という対応

これが一般的にキリスト教会の礼拝で行われていることではないでしょうか。
そうすると、いわゆる言いぱなっしの聖書の説教を聞いた信者の対応は、分かった振り・出来ている振りをするということになります。
出来ていないのに、出来ている振りをすることを偽善といいます。
この聖書箇所の前のところで、イエス様は偽善に気を付けるようにと言われました。
偽善は触れるだけでも、伝染するものであるとも言われました。

2.「そんなこと言われても、出来ないよね」という対応

どういうことかと言いますと、水準を人間の側に合わせるということです。
あるホーリネスの牧師がアメリカ・メソジスト教会に招かれて「キリスト者の完全」についての説教をしたことがあったそうです。
(「キリスト者の完全」がどういうものかは、このブログに書かれてあることを参考にしてください。)
そうしたところ説教が終わったあと、司会者が出てきて「ただいまの説教で語られたクリスチャンのあるべき水準は高すぎます。皆さん、失望しないように」と言ったというのです。
これが典型的な[現状を肯定してしまう]ということです。
では現状を肯定してしまうことと、ありのままを受容するということは、どこが違うのでしょうか。

①肯定とは行為を是認すること。(たとえば万引きした子供に「私も小さい頃は万引きをよくやったものだ」と言うことです)

②受容とは存在を是認すること。(万引きした子供に「君がそんなことするはずがない。きっとそうせざるを得ない理由があったのではない?」と言うことです)

③肯定とは現状の肯定ですから、変わらなくて良いということです。しかし受容とは存在と行為を切り離し、存在は無条件に受け入れ、行為は存在にふさわしいものに変化していくように期待することです。

3.あるべき水準を明確に示し、いかにして実行していくかを示す

これが真のキリスト教の姿であり、イエス様の言われたことです。
ではどうしたら、これが可能となるでしょうか?

①まず自分がやってみる

「子供がテレビばかり見て勉強しないが、どうしたら勉強するようになるだろうか」と相談されるお母さんがおられます。
皆さんなら、どのようにお答えになられるでしょうか。
ありのパパですと、自分自身が勉強しなければならないのに誘惑に負けて勉強しなかった苦い経験がありますので、明確にお答えすることが出来ます(笑)。

ありのパパ:「お母さん、そんなことは簡単です。家の中からテレビをなくすことです」
お母さん:「えっ?そうは言っても他の家族のものもテレビを見ますし~」
ありのパパ:「それって、お母さん。あなたのことでしょ」
お母さん:「(笑)」

勉強しない子供の親御さんはやっぱり勉強しない方が多いようです。
ですから親御さんが変われば、余計なことを言わなくても子供は勉強するようになります。

②自分がやってみて出来なかったら「こういう理由で出来なかったのか」と相手に共感する

全ての秘訣はここにあると言っていいぐらいです。
「私、出来る人。あなた、出来ない人」ではいつまで経っても関係性を確立できません。
関係性とはメッセージが伝わっていく管のようなものです。

多くの説教者やクリスチャンは、この管を作らずにメッセージだけを伝えようとするから、うまく行かないのです。
「私、救われている人。あなた、救われていない人」
「私、聖霊充満の人。あなた、聖霊からっぽの人」
二元的な理解で、人を出来る人と出来ない人に分けるとき、伝わるものも伝わらなくなります。

③出来ない自分をしっかり見つめつつ、出来たところをどのようにして可能になったかを伝える

キリスト教の宣教自体が、ある意味で「私、救われている人。あなた、救われていない人」を前提としています。
ではどうしたら良いのでしょうか?
宣教において摩擦を避ける道は、出来ていない自分を告白しつつ、神様から教えられたことを人々にお伝えすることです。
告白すると言っても、謙遜傲慢ではいけません。
具体的に告白する必要があります。
たとえば「昨日も夫婦喧嘩をしてしまいました」とか、いくらでもあります(笑)。
要は本当のことを言うということです。
そのようにして信頼関係が出来た上で、自分が教えられたことをお話しすると大抵受け入れられるものです。
このような説教を聞いた人は、みんなやる気満々になるのではないでしょうか。(少なくとも三日間は持つと思います(笑)。)

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