十全な説教とは釈義と適用とカウンセリング的アプローチがあること

説教(メッセージ)の目的は聖書を正しく解き明かし、問題に適用し、説教を聞く人の心に届けることです。
そのためにはどうしたら良いでしょうか?

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1.説教には正しい釈義が必要

キリスト教の異端と呼ばれる団体に「エホバの証人」というのがありますが、この団体の説教者は皆一様に判を押したように極端に抑揚のない話し方をします。
明らかに誰かのしゃべり方のまねをしているように見受けられます。

彼らの説教を聞いて驚いたことは全く釈義をせずに、適用だけを語っていたことです。
これでは説教者が好き勝手に説教が出来ると思いました。
ひょっとしたら厳密に聖書の釈義を行うと、困ったことになるから釈義を行わないのかもしれません。

ここまで極端に行かないとしても、福音派教会やペンテコステ派教会の牧師の説教も釈義が弱いと感じます。
たとえば全き聖潔(きよめ)が主題の説教で、聖書のある箇所が説き明かされていました。
集会後に改めて聖書を開いて、主題聖句の前後の部分を含めて読んだところ、驚くことにその聖書の箇所は全き聖潔のことなど言っていなかったのです。

またある聖霊派の牧師が、当時存在していたソビエト連邦を黙示録に出てくる反キリストであるとしました。
はっきり言うとこの主張に根拠は全くありません。
ただ面白おかしく聖書の記述をまるでパズルのように当時の国際情勢に当てはめたに過ぎません。
この方の主張の通りであるとすると、反キリストであるソビエト連邦が崩壊したのですから、反キリストはいなくなったことになりますが、聖書によると反キリストが裁かれるのは再臨のときですから、再臨の前に反キリストがいなくなるはずはありません。
この方は何とお答えになるでしょうか?
あとで恥を見るようなことをしてはなりません。

2.説教には適切な適用が必要

リベラル派教会の牧師の説教を聞いていて感じるのは(そんなに沢山の牧師の説教を聞いたわけではありませんが)、説教に適用がないということです。
どういうことかと言いますと、キリスト教の説教とは聖書の説き明かしが主要な部分を占めますが、その聖書箇所は、この私にどのような関係があるのか、説き明かされたことは一体どのようにしたら実行可能であるのかという部分が欠落しているということです。

説教を聞いている側は、語られている内容をどのようにして実行すればよいかと考えている最中に説教は終わってしまいます。
ありのパパなどは、あとから「なぜ適用がないのか?」と聞いてみたいと思うほどです。

3.説教にはカウンセリング的アプローチが必要

正しい釈義と適切な適用がされていれば、それで良いのでしょうか?
ありのパパはそうは思いません。
イエスは「盲人の目が開き、足なえが立ち上がり、死人が生き返ったのを見て、自分の抱くイメージと異なっているということで躓かない者は幸いです」と言われました。

なぜ盲人の目は開き、足なえが立ち上がり、死人が生き返ったのでしょう。
それは神の愛がその方の心にまで届き、もう一度生きる力が回復したからです。

ではなぜ神の愛が一人一人の心に届いたのでしょうか。
それは自らの現実が神によって奇跡的に変えられ得ることを知ったからです。
具体的に申し上げますと、学校に行こうとしても行くことが出来ない登校拒否のお子さんが、神の愛を知ることによって学校に行けるようになる奇跡が起こるということです。

そのために必要なことは、説教を紋切り型の宣言のように取り扱うのではなく、説教を聞くお一人お一人が置かれている現実の問題を解決できるようにすることです。
そのようなとき、教会に真の奇蹟が起きるようになります。
奇蹟の起き方や現れは初代教会と全く同じではないかもしれません。
しかし確かに初代教会と共通する点があるのを、多くの人が認めるようになるでしょう。

◎十全な説教とは、正しい釈義がなされ、適切な適用がなされ、そしてそれがカウンセリング的アプローチによって信者に届けられるものです。
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. LIKELUKE より:

    初めまして。日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のLIKELUKEと申します。初めてお邪魔しましたが、説教にまつわるお話、特にカウンセリング的アプローチの部分は興味深く拝読しました。とても参考になりました。またお邪魔します。

    • arinopapa より:

      LIKELUKEさん、こんにちは。
      管理人のありのパパです。
      初めてのコメントをありがとうございます。
      これからもよろしくお願いいたします。