聖書に忠実な信仰者であるためには思い込みを打破する必要がある

人は誰でも自分が持っているイメージと違うと、失望したり、相手を裁いたりしがちなものです。
それは聖書の登場人物であっても変わりません。
私たちはどのようにして自分の持っている固定観念を変えていくことができるのでしょうか?

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1.バプテスマのヨハネの宣教とイエスの宣教のちがい

「これらの驚くべき業を見て、自分の思い描いていたイメージと違っているために、わたしに躓(つまず)かない人は幸いです」[新約聖書ルカの福音書07章23節]

バプテスマのヨハネは政治的色彩の強い宣教活動を行いましたが、イエスの宣教活動はそうではありませんでした。
その故にバプテスマのヨハネは『イエスが救い主である』との確信がぐらつきました。
バプテスマのヨハネが偉いのは、その疑問を直接イエスにぶつけたことです。

その疑問に対してイエスは、福音の内容と範囲がバプテスマのヨハネが考えるよりもはるかに広いものであることをお示しになり、自分の考えるイメージと異なる故に躓くことがないようにと言われたのでした。

2.経済的祝福は御利益か?それとも福音か?

ペンテコステ派は経済的祝福を福音の中に含めますが、リベラル派や福音派は経済的祝福を言うことはご利益信仰であるとします。

この問題の本質は福音を美しい上品な飾り物にしておきたいというところにあるのではないかと、ありのパパは考えています。
すなわち「金儲けは神様抜きでやるからよろしく!」ということです。
それを余計なお世話にも経済的祝福を福音の中に入れられては「金儲けも神様に頼って行わなければならないではないか」ということになります。

景気が良い間は、神に頼らないでも自分の力で出来ると錯覚できます。
しかし今のように不景気で人間的な力ではいかんともしがたいとき、神さま抜きの人間の側の努力だけでは行き詰まるのは必定(ひつじょう)です。
今のような時こそ、神の福音の中にある経済的祝福を信じるべきときです。

3.現代の教会は思い込みを打破する必要がある

①福音派教会への提言

聖書の命令に明らかに反するカルト的教会と共に働くことは教会の働きの妨げとなります。
どうして何も無かったように問題のある教会と協力できるのでしょうか?
これではまるで非倫理的企業やブラック企業と変わるところがありません。
このような恥ずべき行いを神の御前でしてはなりません。

②リベラル派教会への提言

政治的意見について問題を感じるなら、その政治的意見を問題にすべきであり、その個人・団体が行っている宣教活動までを否定するのは明らかに行き過ぎです。

これはおもにビリー・グラハムがベトナム戦争を支持したことを指しています。
当時のアメリカの国論を二分した出来事であり、多くのアメリカ人がそのために悩み苦しみました。
それを現在の日本の立場から正義漢を気取って中傷することは簡単なことです。
しかし自分の所属する教団が戦時中に犯した罪は棚に上げて、人様を罵ることを神はお許しになりません。
自分たちが犯した罪に対してこそ、正面から取り組むべきではないでしょうか?

私たちは誰でも、信じたいものを信じてしまう傾向があります。
しかし実態を直視しなければならなくなったとき、信じているものを確認する作業が必要になります。
この作業を拒否するとき、信仰は形骸化します。
しかしこの作業を苦しみながらも行うとき、信仰は生きたものとなります。

◎平安と祝福を祈っています。

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