なぜ献金するのか

(Ⅱコリント8、9章)

大きな超教派の聖会では、説教の前後に献金のアピールがあります。
ありのパパは、この献金のアピールを聞くのが好きでした。
それはアピールされる方の個性が良く現れており、一人一人みな違うのが興味深かったからです。
しかしペンテコステ教会に移ってからは少々居心地の悪さを感じるようになりました。
それはあまりに献金のアピールがあくどいというか、守るべき聖書のガイドラインをはるかに逸脱していると感じられるからです。
今日は皆さんとご一緒に、聖書から献金についての教えをご一緒に学びます。

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1.憐れみの心が献金の動機でなければならない

「熱意があるなら、いくら献げたら良いかは問題ではない。神は持っていないものまでも献げよとは言われない」
この場合の熱意とは、経済的困窮の状態にあったエルサレム教会のクリスチャンへの憐れみの心を指しています。

「神は持っていないものまでも献げよとは言われない」とは、なんと痛快な言葉ではないでしょうか。
「信仰をもって(今もっていないものをも)献げなさい!」と献金を強要する人々よりもはるかに神は常識を持った方であられるのです。ハレルヤ!
神が献金欲しさの欲深な取税人のような方でないことを心から感謝します(笑)。

2.献金の取り扱いについての注意

献金の取り扱いについて誰からも疑惑や非難を受けないようにと聖書に記されたのが今から二千年前でした。
しかし、残念ながら教会はこの面では少しも進歩するとこができなかったようです。

3.愛に包まれたお金をもらうとき、人の心は変わる

献金の究極的目的は世界的ネットワークを形成するクリスチャンの一体性を高めることにあります。
お金に余裕のある地域のクリスチャンが、経済的に困窮しているクリスチャンを助けることによって、助けられた側のクリスチャンの意識が変わるのです。
聖書のこの個所に挙げられている事例では、救われてもなお律法主義から解放されず、愚かで醜い民族的優越意識から抜け出せないでいたエルサレム教会のクリスチャンたちが、馬鹿にしてきた異邦人から献金を受け取ることによって、自分たちの高慢さが打ち砕かれ心が溶かされるのです。
これが献金の真の意義です。

◎韓国のクリスチャンたちが自費で大挙して我が国に伝道に訪れることを、この視点から見ると新しい意義を見いだせます。
それは彼ら韓国人クリスチャンの伝道によって心の頑(かたく)なな日本人クリスチャンの心が溶かされることが真の目的であるのが見えてこないでしょうか。

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