一方的に与えられるのが印、神と共にいると与えられるのが証拠

「わたしは必ずあなたとともにいる。それこそわたしがあなたを遣わした証拠である。主である神様が、確かにあなたに現れたことを、彼らが信じるための印である」[出エジプト記03:12,04:5]

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1.現代キリスト教と印

ここには印と証拠という二つの言葉が出てきます。
印とはペンテコステ派信徒であるなら、なじみの深いものです。
聖霊のバプテスマに伴う印としての異言から始まって、祈りの中でなされる「神様、どうか癒しと印と不思議と奇蹟をもってご自身の御言葉を堅くしてください!」というものまであります。
少々意地悪に言うと、印フェチという面もあるかもしれません。

そして現在では福音派もペンテコステ派に影響されて、神学上は認めませんが現実には印を求める傾向が強くなっています。
リベラル派キリスト教はどうでしょうか。
この派はそもそも聖書の中に出てくる奇蹟物語などに対して割り引いて考えますから、印を求めることはないと言えます。
しかしリベラル派キリスト教内の聖霊運動であるカリスマ運動では事情は全く異なります。
ペンテコステ派も顔負けの印のてんこ盛り状態です。
これはやはり人間というものが印を求める存在であることを表しているのではないでしょうか。

このように現代キリスト教は印が蔓延しているということが出来るでしょう。
しかし印というものは天的なものであり、神の臨在の現れであるのですが、残念ながらそれ以上のものではありません。
それどころか印にあまりにも執着するなら、それは印気狂いになってしまう危険があります。

2.現代キリスト教と証拠の不在

これに対して証拠はどうでしょうか?
現代キリスト教のどこを探しても見つけることが出来ないほどに貴重なものとなっているのではないでしょうか。
そもそも証拠とはなんでしょうか?
上記の御言葉によれば、神様がモーセとともにいることが、神がモーセを遣わしたことの証拠であるというのです。
「神があなたとともにいるのでなければ、このようなことは到底出来ることではない」と人々が言うとき、それが証拠です。
しかし現代キリスト教では人々に「神があなたがたと共におられるなら、なぜこのような不祥事が続発するのか?」と言われています。
そして「やっぱり神様なんか、いないんだ。それは教会とそこに集う人々を見れば分かる」と言うのです。
これではいけません。
教会は悔い改めて、再出発すべきです。

3.
私たちクリスチャンはどうすればよいのでしょうか。
印はもう十分にありすぎるほど、あります。
まだ足りませんという人は、アルコール依存症と同じく、印依存症になっているのです。
私たちクリスチャンは、印と共に、それにまさって証拠を求めなければなりません。
印は神が一方的にくださるものですが、証拠はそうではありません。
証拠は、クリスチャンが神と共に歩み(一週間や一ヶ月ではなく、中・長期間にわたって)、神と共に様々な困難の中を乗り越えていくとき、「神があなたとともにおられるに違いない」と人々が言うようになるのです。

これが働き人が神によって遣わされた証拠です。

◎私たちクリスチャンは、印と共に、それにまさって証拠を求めようではありませんか。
平安と祝福を祈っています。

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