自分のアタマで考え、自分の言葉で語るための方法はこれだ!!

自分の頭で考え、自分の言葉で語るとは、どういうことでしょうか。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.「聖書にどのように書かれているかではなく、あなたはどう考えるのか?」と言われて目が覚めた

ありのパパが会社勤めをしていましたとき、女性社員から、あることで意見を求められたことがありました。
その時、ありのパパは「聖書には…………」と答えようとしたところ、その女性社員は決然と「私は聖書にどのように書かれてあるかを知りたいのではない。ありのパパさんがどのように考えているかを知りたいのです」と言われました。
そのあまりにも明確な態度に虚を衝かれてしまったことを今でもはっきりと覚えています。
このことがきっかけになり「人がどう言っているか」ではなく、「自分はなぜそのように考えるのか」ということに焦点が合わさっていきました。

2.信じることと考えることを両立しなければならない

ある人は「でも聖書に書いてあることは神の言葉だから、人の言葉とはちがうのではないか?」と仰るかもしれません。
しかしご存じのように、一つの聖書から複数の解釈や神学・教理が生み出されています。
そしてこれらの神学・教理は片方があっているとすると、もう片方は間違っているという性格のものです。
たとえば予定論をたとえとして上げますと、カルビン神学は神が特定の人を救いに、ある特定の人を滅びに定めていると主張します。
これに対してウェスレアン・アルミニアン神学は、神は全ての人が救われることを望んでおられ、全ての人に救われるための先行的恩寵をお与えになっていると考えます。
これは日本的曖昧さで理解したり、答えたりすることを拒絶する内容です。

2.一つの領域で考えるのを止めると、人は他の領域でも考えるのを止めてしまう

ありのパパが教会生活を送っていて問題を感じたのは、福音派のキリスト者は(一般的に言って)ものを考えようとしないことです。
議論が白熱してくると、いつも決まったように「むずかしい問題だよね」で終わってしまいます。
聖書の理解については神学者たちが何百年も議論をして、それでも解決されないのですから、そのように言うのも分からなくはありません。

しかし神学的理解について考えることを止めたクリスチャンは、他の領域の事柄についても考えるのを止めてしまう傾向があります。
これでは政治や国際関係・歴史問題について自分の意見をはっきり主張しつつ議論していくということは出来ません。

3.どのようにして考える習慣を身に付ければ良いのか?

参考になる方法として司法試験を受ける人々が実践する方法をご紹介します。

①司法試験を受けようとする人たちが行う、判決文を書く練習の仕方

まずその被告を有罪にしたいか、無罪にしたいかを決めます。
そして自分の結論に向かって、論理を組み立てていきます。
これが正しいやりかたかどうかをありのパパは知りません。
またこんなんで判決を決められたらかなわないと思う人もおられるでしょう。
しかし案外、人が良いとか悪いとかを決める判断基準は、そのようなところにあるということを知っておいて損はないと思います。

②甲という主張と、乙という主張がある場合、その両方に耳を傾ける

それを聞いたり読んだりしているうちに、自然と自分の心と頭が、どちらかの意見に引き寄せられてきます。
この引き寄せられた意見が、あなたの考えに最も近い主張ということになります。

③自分の意見を決めた後は、人々になぜこの意見を自分の意見として主張するのかを説明します

説明する際に「この意見が好きだから」とストレートに言ってしまっては納得する人は誰もいませんし、そんなことをする人は大人になりきれていない子供っぽい人です。
人々の理解を得ようとするなら、自分の意見が甲だとするなら、

a.まずなぜ自分が甲の意見を採用するか理由を述べる。

b.次に乙の意見のあらましを述べる。

c.そして結論として、それでもなお甲の意見を自分の意見とするかの理由を述べる。

このように議論を展開させていくと、人々の納得や了解を得やすいです。
逆にbの部分が欠落してしまうと、人々は一方的な主張であると感じてしまい、自分の意見をいくら主張しても人々を説得することが出来なくなってしまいます。

◎議論しようとすると、議論でなく果たし合いになってしまいがちな武士道の国・日本ですが、いつまでもそれではいけません。
意見と意見を戦わせて、最もふさわしい着地点を見いだすという作業がこれからの時代にどうしても必要です。
その先端を私たちが担(にな)っていくことが出来るなら、この国の未来も明るいのではないでしょうか。

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