神に慰められた体験をもつ人だけが、他者を慰めることができる

人を慰めようとして途方に暮れる時がありませんか?
それは自分が慰められた体験を持っていないからです。
もし自分自身が神から慰められた体験を持っているなら、どんな境遇の中にある人をも慰めることができます。
その秘訣は何でしょうか?

1.受容されてるつもりと本当に受容されてるのちがい

ありのパパがセキュラー(世俗)のカウンセラーと一緒に働いていたとき、良く質問されたのが、「ありのパパさんは受容することが大切と良く言うけれど、ありのパパさん自身は誰に受容してもらってるの?」というものでした。
「それはね、神様だよ」と答えると、「やっぱり!」と言われて、話がそこから先に進まないのでした。
その当時は、その理由がわからなかったのですが、今は分かります。
よく言われたのが「ありのパパさんの場合は神様だけど、それは仏教徒の場合は仏様だし、神道の場合は八百万の神々なんだよね」ということでした。

皆さんは、この質問にどうお答えになるでしょうか?
ありのパパですと、こう答えます。
「問題は宗教ではないの。鍵は受容してもらいたいと願っている相手から、実際に受容してもらっているかどうかが本当の問題なのです」

2.慰めを感じる慰めとそうでもない慰めと

「様々な苦しみの中にあって、神は私たちを慰めてくださった。だから神様からいただいた慰めによって、私はどのような苦しみの中にいる人であっても慰めることができる」(Ⅱコリント1:4)とパウロは言っています。

私たちは本当に神からの慰めを経験しているでしょうか?
もし、神に慰められた体験がないなら他の人々を慰めることはできません。

ありのパパも人を慰めることもあれば、慰められることもあります。
しかしそのようなとき、ちっとも慰めを感じないということもあります。

ありのパパが病気で臥せっているとき、枕元に来て「大丈夫?」と聞く人がおりました。
ありのパパは「大丈夫じゃない」と答えます。
するとその人はしばらくするとまた「大丈夫?」と聞くのです。
ありのパパ「だ・か・ら、大丈夫じゃないって言ってるでしょ!」と答えると、その方は困ったように「では何と聞けば良いのか?」と仰います。
ありのぱぱ「そんなことは自分で考えてくれないか?」と答えると、沈黙がその場を支配します(笑)。

この方はありのパパからカウンセリングを受けている方でしたので、受容するとはどういうことかを知っていただきたくて、このような応対をわざとしたのでした。
皆さんなら、このような状況で、どのような応答をされると良いと思われますか?
考えてみてください。いつかきっと役に立つときが来ます。

3.キリストでなければならない理由は何か?

それは受容というものが人格的応答によってなされるものだからです。
人格的応答とは、人格的存在である人間が自分と同じ人格をもっている相手を求めることです。
作り話や、概念上の存在では、人格的応答がそもそも成り立ちません。
たとえキリストを信じているとしても、概念としての神・キリストを信じているだけなら、そこから慰めを受け取ることはできません。
なぜなら慰めは人格から流れ出て、人格に流れ込むものだからです。
これがクリスチャンであっても、生きておられる(人格を持っているという意)神を体験したことがない人がいる理由です。
パウロは個人的に、具体的に、神に慰めていただいた経験がたくさんありました。
雲をつかむような話ではなく、教理や神学を神の替わりにするのではなく、神様ご自身から慰めを受けていました。

ここまで書いていてありのパパ自身がはたと気づいたのですが、ありのパパもそのようにはっきりとした神からの慰めを体験したことはあまりないのです。(気づくのが遅い!)
悔い改めて再出発することといたします。

現代キリスト教がリバイバルしない原因は、神を人格的存在として認めず、宗教の教祖のごとく崇め奉っていることが理由ではないでしょうか?
キリストを人格的存在として認め、このキリストから豊かに慰めをいただき、その慰めをもって他の人々を慰める者でありたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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