神と共に生きることと、そのように演じる生き方のちがい

(創世記34・35章)

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1.本物のいやしと、いやしを演じることと

アダルトチルドレンは病気ではありませんから、いくら成長したとしてもアダルトチルドレンでなくなるわけではありません。
ただアダルトチルドレン特有の強迫的行動パターンから解放されるということです。
ヤコブがペヌエルの経験を通して囚われから解放されたことを昨日は見ました。

いったん囚われから解放されても、また同じところに戻ってしまう危険が私たちにはあります。
原因の一つは自分が癒されたとしても、周りの状況まで変わってしまったわけではないのを理解できないことによります。

解放されてしばらくの間は喜んでいるのですが、その喜びの感情も少しずつなくなっていきます。
一生続くと思った喜びの感情が潮が引くようになくなっていくのを感じるとき、不安が押し寄せてきます。
「再びあの悪夢がやってくるのではないか?」

しかし感情の潮が引いた後は、信仰によって自覚的に歩むということを始めなければなりません。
そうしないで色々な集会に出席して「喜び」を注入してもらおうとする人々がいます。
このような人々を傍(はた)から観ていますと、とても不自然ですし、人工的な匂いと言いますか「喜んでいる自分」を演じているのが丸分かりです。

2.本当に神と共に歩んでいる人の特徴

大切なことは「神とともに歩むこと」です。
「神とともに歩む自分」を演じることではありません。
そのような演じる生き方は必ず破綻します。
とはいえどのような人であっても演じているつもりがなくても、知らず知らずの中に演じているということがあり得ます。
毎日の生活の中で、果して今自分は「演じているだけ」なのか、それとも本当に「神とともに生きている」のかを判別する良い方法があります。

①正直に生きる

本当は嘘つきなのに「嘘なんかついたことありません!」という顔をして生きていないか。
本当は嫉妬深いのに「全ての人を愛します。アーメン!」などとたわけたことを抜かしていないか。
本当はだらしないのに、人から「あなたはきちんとしているねぇ」と言われて、まんざらでもない気分になっていないか。

②怒りを我慢(抑圧)ではなく、抑制(コントロール)できている

正直に生きていれば「俺、今腹立ってるねん」と言うことができますから、怒りが爆発することはありません。
しかし「誰にでも問題はありますよね」などと心にもないことを言っていると、抑圧された怒りがいつかは爆発してしまうでしょう。

③神が共におられるとの思いが自然に湧いてくる

もし演じているのでなく、本当に神とともに生きているなら、その時々に神様の導きや慰めが必ず与えられます。
ひとり相撲の場合は、神に出番を与えませんから内面はいつもひとりぼっちです。
孤独の風がぴゅーぴゅーと音を立てて、心の中を吹きすさんでいきます。
(これは皆ありのパパのことを言っています(笑)。)

3.ヤコブのその後

囚われから解放された後もヤコブは続けざまに困難に遭遇します。
それも自分の子供たちによってです。
怒りを爆発させても正当化できる場面ではあります。
しかしヤコブはそのようなことをせず、淡々と歩むべき道を歩んでいきます。

①娘がレイプされたとき

聖書の記述によると、ヤコブの娘は自分から危険の中へ飛び込んでいったことが分かります。
以前のヤコブなら、どのような行動をとったか想像がつきますが、そのようにはしませんでした。

②息子たちが復讐したとき

息子たちは宗教を利用して異邦人をだましました。
そして異邦人を皆殺しにし、全ての財産を奪いました。
その時、父であるヤコブは息子たちを戒めました。
即ちこの思慮に欠けた行動がどのような結果をもたらすかを言って聞かせました。
ここにも目先の問題だけに囚われていた以前のヤコブからは考えられないような行動を見ることができます。

③神がヤコブとともに生きてくださった

窮地に陥ったとき、神は現れてくださり具体的な指示を下さいました。
そのことによって一族が全滅するという絶体絶命のピンチから救われたのでした。

多くの人が「困ったときには、神様が必ず助けてくださる」とか言うのを聞くことがあります。
しかし私たちがくれぐれも肝に銘じておかなければならないことは、神様が必ず助けてくださるのは神とともに歩んでいる人に限られるということです。
神を信じている自分を演じている人に、どうやって神が現れてくださるでしょうか。
演じるとは神を自分の舞台から締め出すとことです。
神とともに生きるとは、自分がセリフをずっとしゃべるのではなく、自分が言いたいことを言い終わったら、今度は神さまが語ってくださるのを待つことです。

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