信徒が説教することについて聖書は何と教えているか?

信徒が説教することについて聖書は何と教えているでしょうか?

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1.全き愛の精神で聖霊の賜物を用いる

パウロはコリント教会への手紙第一12章で賜物と教会における役割を述べ、13章で賜物を用いる動機の問題を述べています。
さらに14章では具体的な賜物の運用の仕方について指示を与えています。
福音派教会では、12・14章を無視し、13章だけを絶対視するので聖書の健全な解釈が難しくありました。
まさに「読めば読むほど、分らなくなる」状態だったわけです。

しかし文脈に沿って読みさえすれば、中学生でも理解できることです。
もうそろそろ教理を無理に聖書に当てはめることをやめるべき時ではないでしょうか?

○有名なコリント教会への手紙第一13章は漠然とした愛の教えではなく、聖霊の賜物をどのような動機で用いればよいかについて教えている箇所なのです。

2.信徒による説教のすすめ

14章における集会の進め方の指示を読むと、これはどうやら教会堂における多人数が集まる集会を指してはおらず、家庭などで行われる10名程度の人たちが集まる集会を指しているように思えます。

このような集会では2・3名の信者が、かわるがわる預言(神の言葉の説教)をするようにと言うのです。

現代のクリスチャンたちは、牧師の説教を聞いて「恵まれた」とか「今日は今一つだった」とか好き勝手なことを言いがちですが、パウロの指示によるなら自分たちも説教しなければならないのです!

牧師の説教の批評をしている暇はなくなるでしょう(笑)。
一人一人のクリスチャンが、説教をするのです。
もともと聖書には聖職者と平信徒の区別はありませんから、このパウロの指示には何の不自然さもありません。

3.家の外でも中でも御心を行う

(家の教会の)外では病気の人を可哀想に思うゆえの癒しの業(わざ)を行い、(家の教会の)内では御意(みこころ)を説教するのです。
これを読まれて「えぇ~!いやだ。今でも忙しいのに、もっと忙しくなる」という方よ。
これはやりがいのある忙しさではないでしょうか?
ひょっとしたら、キリスト者のこのような姿が当たり前のことになったとき、リバイバルが起きるのかもしれません。

◎回復と平安を祈っています。