目的がないがしろにされ、手段が目的化されるとき、教会は死にます

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1.決して売り渡してはならないものを売り渡すとき

「私はお腹がすいて死にそうだ。長子の特権なんかどうでもよい」
これは創世記25章32節に記されている言葉です。
実のところ、ありのパパはこの言葉の意味がよく分かりませんでした。
「長子の特権」という霊的な事項がなぜ日常生活の「一杯のあつもの(スープという意味)」と引き換え出来るのか分からなかったのです。
しかも売り渡した兄のエサウは売り渡したことを後悔しており、あとで泣き叫んでいるのです。
なぜ目に見えない霊的な賜物である「長子の特権」について、こんなに実際的な反応が出てくるのか不思議でした。

しかし最近ようやっと分かり掛けてきました。
それは福音派教会が直面する、教会員の人権という問題にからめてでした。
この「長子の特権」を「教会員の人権」に置き換え、「お腹がすいて」を「教会が成長するため」に置き換えると、意味がすっと入ってきました。
即ち、「教会が成長するためなら、教会員の人権なんてどうでもいい」と読むと、上記の御言葉の意味が理解できたのです。

2.役に立つ存在と無用の長物と人権のかかわり

神は人権を徹底して尊重することを教会に求めておられます。
しかし現実は伝道する人が重宝がられます。
そして内心では「伝道する人が役に立つ人であり、良い存在。伝道しない人は無用の長物であり、いない方がいい存在」と思ってしまうのです。
エサウが「お腹がすいているという現実の前では、長子の特権などいかほどの価値があろうか」と言ったように、私たち教会も「人を救いに導かなければならないという大目的の前では、人権の尊重など何の役に立とうか。人権は脇に退けて、今は伝道に勤(いそ)しもう」と言っていないでしょうか。

3.伝道は手段、人権の尊重は目的

伝道という手段を最優先のことにしてしまうと、人権の尊重という神の目的が見えなくなります。
そもそも神が教会をお建てになった理由は、ご自身の被造物である人間が幸福に暮らすためでした。
幸福に暮らすということの究極的な意味は人権が守られるということです。
救われたけれど人権は侵害されているというのでは、まったくの茶番劇であり偽善そのものです。
救われるということは、天国に入れる永遠の命を賜ったということであるとともに、この世において神の子として認められた存在となるということです。
神の子であるということは、とりもなおさず人権が尊重されるということなのです。

○教会がこのことの真の意味を悟るようになるまで、神はリバイバルを取って置かれるのではないでしょうか。

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