神の愛は創世記から始まっている

創世記を読んでいくと、天地創造から始まって、人類の堕落、人類始まって以来の殺人事件と、それこそ息をつかせぬほどの勢いで大変興味深い物語が続きます。
人類始まって以来の殺人は、実は献金と深い関係があります。
この当時はまだ貨幣が存在しておらず、作物や家畜を献げておりましたので献金ではなく献げ物と呼びます。
アベルの献げた家畜は神に受け入れられ、カインの献げた作物は神に受け入れられませんでした。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.神に受け入れられる献金と受け入れられない献金の違いは何か?

なぜ神はある人の献げ物は受け入れられ、ある人の献げ物は受け入れられないのかについて、聖書の他の箇所で明確に語られています。

「なぜなら神がお求めになるのは、献金ではなく、悔いし砕かれた心であるからだ」(イザヤ43:23現代訳聖書)

真心(まごころ)のこもった献げ物は受け入れられ、そうでない献げ物は受け入れられないということです。
この真心とは具体的には神様に指摘されたら、それをすぐに悔い改めるような柔らかい心を指しています。
決して感情がこもっているとかいうことではありません。
さぁ、大変です。あなたの献金は受け入れられているでしょうか?(笑)

2.憐れみ深い神は私たちのありのままを受け入れて愛してくださる

献げ物が受け入れられないことを知ったカインが、怒りのゆえに弟のアベルを殺そうと思ったとき、神はカインを憐れみ、罪を犯すことがないように忠告されました。

「もしも正しいことをしているなら受け入れられるはずだ。そうでなければ罪があなたを滅ぼそうと待ち伏せしている。それに打ち勝つべきではないのか」(創世記04:04~07)

この御言葉はありのパパには格別に心に響きます。
なぜなら、かぁ~となってあとから後悔するようなことを怒りに任せて行ってしまうことがあるからです。
そのようなとき「もし私が正しいことをしているなら受け入れられるはずだ。私に問題があって、このような困難に見舞われているのに、それにもかかわらず人のせいにしたり神のせいにしたりするなら、それは私をもっと困難な状況に追いやる。だから、このようなときこそ自己憐憫(れんびん)の誘惑に打ち勝たなければならない」と自分に言い聞かすことが出来たら、どんなに幸いでしょうか。

それにしても殺人を犯そうとする者に向かって、神はなんと深い憐れみを示してくださったことでしょうか。
「標準に届いてないぞ!」でもなく、「罪を犯したら容赦のない裁きが待っているからな!」でもなく、愛をもって説得してくださったのでした。

確かに新約聖書におけるイエスの教えは、旧約聖書の創世記から始まっているのです。
決してある人々がいうように、聖書の教えが少しずつ発達して、ついにイエスの愛の教えになったのではありません。
はじめから神は愛であられ、罪を犯して滅びの淵に向かう人に対して憐れみを示してくださる御方であるのです。

○誘惑に負けて、罪を犯すことがないように守ってください。(主の祈り)

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、こんにちは。
    私がクリスチャンになったばかりの頃、何かの雑誌か本の中でこんな話が載っていました。

    創世記のカインとアベルの物語を読んだ、あるノンクリスチャンの方の投稿でしたが、その方は、「なぜ、神様はアベルの捧げ物を受け入れて、カインの捧げ物は受け入れなかったんだろう?」という疑問を持ったそうです。
    それで、その疑問に答えてもらおうとして、日本基督教団事務所に電話をして聞いたそうです。(教会に聞くのではなくて、直接、教団事務所に電話するってところが少々笑えますが・・・)

    そうしたら、その答えは「古代イスラエル民族は遊牧民族だったので、イスラエルの神ヤハウェは遊牧民の神であり、遊牧民族を象徴するアベルは受け入れられ、農耕民族を象徴するカインは受け入れられなかたったのではないでしょうか」みたいな答えだったそうです。

    今でこそ、「ああ、これは宗教史学的な見方からの回答だな」と分かるのですが、その頃の私は信仰的に純粋でしたから(笑)、「何を言っているんだ、聖書の神様はこの世界全ての神であって、遊牧民族だけの神だなんて狭い神じゃないぞ!」みたいに憤慨したのを覚えています。

    パパさんの今回のブログを読んで、ふと、そんな昔のことを思い出してしましました。

    しかし、ノンクリスチャンへの回答に、宗教史学を前提とした回答をするなんて、少々むちゃな話だなあ、と思ってしまいます。きっと、その回答を聞いた方は、「ああ、聖書の神様は遊牧民の民族神なんだ」って刷り込まれてしまったことでしょうね。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    そうですね。よくテレビなどにいわゆる評論家というのが出てきて、「アメリカは一神教の国でなんたら、かんたら」と言っているのを聞くことがあります。

    前提理解というものがありますが、その前提理解が正しいか間違っていないかを慎重に考えないと、間違った結論が出てきます。
    これはなんにでも言えることかと思います。

    その思い込みというか、価値観にも光を当てていければと考えています。

    いよいよ梅雨の季節となりました。ご自愛くださいませ。