宣教に必要な三つのもの

福音の宣教を行うのに、どうしても必要なものが三つあります。
それは「言葉と行い」と「奇跡を行う超自然の力」と「御霊の力によって神に働いていただくこと」です。
今日は皆さんとご一緒に、現代にあって忘れられがちなキリスト教伝道の生命線とも言うべき三要素について考えます。

「キリストが私(パウロ)を用いて、異邦人に主を信じさせるため、a.言葉と行いにより、またb.奇跡を行う超自然の力により、さらにまた、c.御霊の力によって働かれたということ以外は、何もあえて語りはしない」(ロマ書15:18)

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1.言葉は行いが伴っている場合に力がある

テレビのニュース解説でオバマ大統領がイスラム教徒との和解を呼びかけた演説について論評していました。
いわく「ただ一回の演説で問題が解決するほど現状は甘くない」というものでした。
ありのパパはこの解説者の話を聴きながら、分かっていないのは誰なのかと思いました。
この人は言葉の持つ力を知らないのです。
その証拠に、その演説を聞いたイスラム教徒の人たちは大きな感銘を受けた様子が明らかでした。

どんな場合でも言葉は力を持っているでしょうか?
いいえ、そうではありません。
言葉が力を持っているのは、言っていることと、やっていることが同じ場合に限られます。
いわゆる言行一致というやつです。

我が国の政治家は日常的に公約を破ります。
そしてこう、うそぶきます。「そんなこと言ったかなぁ~」
そして選挙民は気づきます。「彼ははじめから公約を守る気などなかったのだ」
言霊(ことだま)の国と言われる我が国で、よくもまぁこんな政治屋を権力の座につかしているものだと、あきれるばかりです。

2.言葉に力がある生き方とは?

以前ある方がコメント欄に「思えば教会はどれほど『ありのままでよい』と語ってきたでしょう。しかし現実にはどれほど強力に『ありのままでいてもらっては困る』と無言のメッセージを伝えてきたことでしょうか」と書かれました。
このコメントを読んで、ありのパパは気づかされたことがありました。
いくら頭の中で「ありのままでいい」と思っても、実際に生活の中で「ありのままでいい」生き方をしていなければ、それこそ「ありのままでいい」と口を酸っぱくして語ったとしても人々の心をうつことはありません。

目の前にある現実の問題に対して私たちはどのような態度をとっているでしょうか。
ありのままでいいと受け入れているでしょうか。
それとも心の中で「困った奴だ」と苦々しい思いを持っているでしょうか。

結論として、二元的な生き方を止めること、ありのままの自分自身と隣人を受け入れること、問題から逃げないこと。
この生き方に沿って生きようとしているなら、その方の言葉には力があると言えるでしょう。

3.奇跡を行う超自然の力

癒しとは、病人をかわいそうに思う心から癒されることを祈って差し上げ、主がその祈りに応えて病人を癒してくださることです。
まず第一に私たちには病人をかわいそうに思う心があるでしょうか?
ありのパパなどは、かわいそうに思う前に「あぁ、あの人タバコすってたから肺ガンになったんだ」と納得してしまうだけで止まってしまうことがあります。
そうではなく、いかほど原因が明らかであろうと、それでもなお神の憐れみを求めて癒しを祈らなければなりません。

もし自分が病気になったとしたら、自分の妻が病気になったとしたら、自分の子供が病気になったとしたらと考えて、同情心と共感を沸き上がらせるのです。
そして癒されるまで祈り続けます。
神が必ず栄光を表してくださいます。

4.神が『私』を用いて御霊の力によって働かれる

この箇所を読んで感心したのは、パウロは私が働いたと言わず、神が私を用いて御霊の力によって働かれたと言っていることです。
これは文法的な表現の問題ではありません。
彼は心底そのように思っていたから、このように書いたのです。

人は誰でも成果を上げると「俺も、私も大したもんだな」と思うものではないでしょうか。
それを否定しても仕方のないことです。
なぜならそのように思う自分に罪悪感を感じ、傲慢な思いを心の底に抑圧したとしても、それは「頭隠して、尻隠さず」だからです。
気づいていないのは自分だけで周りの人は皆あなたの傲慢に気づいています。
ですから無用なことは止めて「はい、私はこんなに傲慢です」と認めてしまうことです。
「あなた、それで良いと思っているの?」と言われれば、「はい、このままで、このままの私を神様が良いと言ってくださいました」と応えれば良いのです。
なんと気持ちがせいせいすることでしょうか。

◎この三つの条件に心して、福音の宣教に勤(いそ)しもうではありませんか。

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