ありのままで救われたのだから、ありのままで生きていく

私たちはありのままで救われました。
だから救われた後もありのままで生きていってよいのです。
しかしどういうわけか入信後は一生懸命に行いによる救いに励むようになります。
生きている間ずっとありのままに生きていく秘訣を解説させていただきます。

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1.親子関係は無条件の愛で結ばれているか?

小学校入学と共に、子供に対して良い成績をとるようにとの親の激励・強制・脅迫・哀願が始まります。
この親の期待に応えることが出来ているうちはよいのですが、人には誰にも限界があり、いつかは期待に応えきれないときがやってきます。

その時に無条件の愛という信頼関係が親子の間にあれば何も問題は起きません。
しかし「期待に応えられたら、あなたはお母さん・お父さんの子供」であり、「期待に応えられなかったら、あなたはお母さん・お父さんの子供ではない」とのメッセージを子供に送っていた場合は、子供は「自分は生きていたらいけない存在」であるとの自覚に苛(さいな)まれるようになります。

ご両親にそのことを申し上げると、ほとんどの親御さんたちは「いや、私たちはそんなメッセージを子供に送った覚えはない」と言われます。
そうです。確かに親御さんにはその気がないのに、お子さんには思ってもいないメッセージが届いていて、それがお子さんを苦しめているということが本当に多いのです。

「救われる」ということと「生きていても良い」というのは、実は本質的に同じことです。
ご自分が只(ただ)で救われているのなら、お子さんに対しても「期待に応えられないとしても、あなたは生きていて良い存在である」というメッセージを送っているはずです。
私たちは自分自身を吟味して、自分自身と周りの人々に、殊に家族の者たちに、ありのままでいいとの(無言の)メッセージを送っているかどうかを省(かえり)みなければなりません。

2.「ありのままでよい」という生き方と「こうならなければダメ」という生き方

「行いによる救い」に生きている人と、「只(ただ)で救われて、そのことへの感謝」で生きている人の違いは、自分自身と周りの人々を、十分と不十分、合格と不合格、良いと悪い、「そのままで良い」と「こうならなければダメ」に分けているか、いないかに現れます。

これは努力しなくて良いということを言おうとしているのではありません。
努力して到達しなければダメという生き方に別れを告げて、只で救われて、救っていただいた感謝を原動力にして無限に成長していく生き方をしようということを言いたいのです。

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3.問題から逃げず、問題に対面する生き方の秘訣

人は誰しも問題のない環境を願うものですが、そうは問屋が卸(おろ)さないものです。
問題が起きたとき、どのような態度をとるかで、その人の実質が明らかになります。

たとえば人間関係のトラブルを起こす人が職場にいたとき、どのような態度をとるでしょうか?
「すべての人はありのままで良い」と本当に思っているなら、そのトラブル・メーカーから逃げないでしょう。
かえってなぜそのような問題を起こすのかを注意深く観察し、問題の核心はなにか(アダルトチルドレンか、発達障害か、人格障害か、精神的病か)を探りつつ、その方のありのままを受け入れることによって無限に成長できるエネルギーをお分かちするのです。

もし問題に対して知らんぷりを決め込んだり、「だから、お前はダメなんだ!」と怒るようであれば、私たちは方向転換をするべきでしょう。
この「だから」というのは原因を表し、「ダメ」というのは結果を表しています。

しかし無代価の救いは、それでもなお救ってくださるという恵みであり、「だから」という原因が結果を連れてくるという方程式を否定しているのです。

皆さんはすでにお気づきだと思いますが、原因が結果を連れてくるという生き方を律法主義と呼びます。
もし自らが律法によって救われたのではなく、福音によって救われたことを知っているなら、周りの人々に対しても律法主義の物差し(メジャー)を当てるのではなく、福音の物差し(メジャー)を当てるべきです。

この福音の物差しには「わたしの目にあなたは高価で尊い」と書かれ、また「そのままのあなたが素晴らしい」と書かれているのです。

問題に対して逃げない生き方、かえって問題に挑戦し、それを福音によって解決していくことに喜びを感じる人生こそ、只で救われた者にふさわしい生き方ではないでしょうか。

◎平安と祝福を祈っています。

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“ありのままで救われたのだから、ありのままで生きていく” への2件の返信

  1. ありのパパさん、おはようございます。
    お久し振りです。
    その節は、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。
    また、お祈りをありがとうございました。
    おかげさまで、大分、心に平静を取り戻せてきました。
    パパさんの心づかいとお祈りには大変励まされました。感謝します。

    投稿はしませんでしたが、パパさんのブログは毎日読ませていただいています。
    共感できる場合もあり、これはちょっと私とは考えが違うな、という場合もありますが、いずれの場合でも楽しく、また教えられながら読ませていただいています。
    これから、毎回というわけではありませんが(まだ、毎回コメントするほど回復していないので)、時々コメントをさせていただきます。

    今回のパパさんの文章の中で、私が教えられたというか、気づかされたのは、日本では浄土系仏教において業によらない他力本願の信仰が昔からあるため、日本人は信仰のみによる救いということを当り前に受け止めている、ということでした。
    私の知る限り、このような指摘をされたのはパパさんが初めてです。なるほど!と思わされました。

    さて、今回は業によらない信仰のみの救い、ということがテーマになっていますが、この点で私が普段から思っている疑問をパパさんにぶつけてみたいと思います。

    クリスチャンは、信仰によって救われる、業によるのではない、と言われていますが、実際には、クリスチャンになると色々な「業」が待っています。

    ①教会(礼拝、祈祷会、その他の集会)に通うこと。
    ②献金をすること。特に什一献金を重要視されること。
    ③毎日祈りなさい、毎日聖書を読みなさいと指導されること。
    ④伝道すること。

    よく、未信者向けの信仰の勧めの本などを読むと(特に福音派系)、大切なのは個人的に神さまに悔い改めて、イエス・キリストを受け入れることだ、と強調されています。
    そして、「今、ここで悔い改めと、イエス・キリストを心に受け入れる祈りをしましょう。それだけであなたは救われます」みたいな勧めがされています。

    しかし、その言葉を信じてイエス・キリストを受け入れ、それがきっかけとなって教会に行ってみると、

    ①本当に信じたのなら、それを表わすために、洗礼を受けなければなりません。
    ②洗礼を受けて教会員になったのですから、月定献金(什一献金)をしなければなりません。
    ③毎週、礼拝には欠かさず出席するようにしましょう。都合が悪くて休むときは必ず連絡してね。
    ④礼拝だけでなく祈祷会も大切です。祈祷会にも出るようにしましょう。
    ⑤教会学校の奉仕者を求めています。あなたは奉仕できますか(無言の圧力)
    ⑥本日は、礼拝後に○○の集会があります。みなさん参加してください。
    ⑦あなたは毎日祈っていますか、聖書を読んでいますか?
    ⑧一人が一人を伝道しましょう。伝道は神さまからのご命令です。
    ⑨小グループ(セルグループ)を始めます。皆さんはそれぞれ教会の集会だけでなく、セルグループの集会にも出て、信仰の交わりを深めてください。

    と言われる。(本に書いてあったことと違うじゃん!と思っても、もう遅い?)

    そのほかにも色々とありますよね。

    それでも、信仰を持って、初めの頃はこれら全てが楽しくて一生懸命奉仕したり集会に参加したりするのですが、何年かするとそれが次第に重荷になってきて、義務化してきて、最後には「教会に行くのやーめた」ということになってしまう。

    こんな話をよく聞きます。

    私が青年だったころ、近くの教会の非常に熱心なクリスチャン青年がいたのですが、彼はその熱心さのゆえに、教会で頼りにされて、ありとあらゆる役割や奉仕を引き受けるはめになってしまい、その余りの大変さに、牧師先生に「教会学校の奉仕をやめたい」と申し出たそうです。
    するとその返事は「奉仕をやめる、やめないは自分自身の問題ですから強制はできませんが、それが神さまの御心かどうか、神さまを悲しませることになるかどうか、自分で祈って決めて下さい。」みたいなことだったので、結局やめられずに奉仕を続けることになった、と半分冗談交じりにグチをこぼしていたことを覚えています。

    教会(特に福音派)では、「それは神様の御心ですか」とか「神様はあなたに何を期待しているのでしょうか」みたいなことをよく言われるのですが、それが無言のプレッシャーとなって、楽しいはずの教会生活・信仰生活がいつの間にか律法的になってしまっているという危険性はないでしょうか。

    これは何もカルト化した教会だけとか、福音派だけとかいうのではなく、キリスト教会全般にわたって言えることだと思います。

    かくゆう私も、最近は年をとってきて、若い頃の情熱が衰えてきたのか、教会奉仕にあけくれる日々に少々疲れを覚えてきてしまい、今は週報作成の奉仕だけにさせてもらっています。
    そのような「我儘」を許してもらえる今の教会には大変感謝しています。

    その代わり(?)私の妻は、教会役員とCS教師で土日返上で頑張っています(笑)
    でも、本人はとても充実して楽しそうに奉仕しているので、私は温かく見守っています。

    長文失礼しました。

  2. ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    またコメントしてくださり、感謝をいたします。
    誰にとっても、避けて通ることのできない道のりを、主イエス様の御衣の内に隠していただいて生きるほかはないと思わざるを得ないことが人生には多くありますね。
    生きている限り、生かされているのであると信じてこの人生を歩んでいきたいと願っています。
    これからもよろしくお願いします。
    返コメを書いていましたら、長くなってしまいましたので、明日の文章に載せることにしました。(笑)
    よろしければどうぞお読みください。

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