人間は神の約束に対してとんでもない勘違いをしている!

神が憐れみの故に定めてくださったことを、人間が誤解して悪く取るということがあります。
そのような危険があるものとして、どのようなものがあるでしょうか?

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1.救いを人間の意志や努力によらず、神の憐れみによるとされた

人は努力をして、競争をして、達成したものだけが自分のものになると勘違いしています。
でも良く考えてみると、水も空気も光も大切なものはみな只(ただ)で与えられています。

その中でも人が一番受け入れられないのは、救いが只で与えられることではないでしょうか。

2.信じなかったから救われないのは不公平で、努力しなかったから救われないのは公平か?

信じた者は救われ、信じなかった者は滅びるということが不公平であるとする主張があります。
しかしこれが努力した者は救われ、努力しなかった者が滅びるという教えであるなら非難されることはなかったでしょう。

本当のことを言えば、救われるために努力するという教えの方が著しく不公平なのです。
なぜなら努力というものには二つの側面があり、ひとつは家族環境と、もうひとつは才能です。

家族環境とは、たとえば親が享楽的であった場合、子供に努力するようにいくら教えても効果はありません。
子供が勉強しなくて困るという悩み事を訴えるお母さんはほぼ例外なしにご自身が今現在何も学んでおられない方です。
ですから、そのようなお母さん方に申し上げるのは「もしお子さんに勉強してほしいと思われるなら、ご自分がテレビのスイッチを消して、勉強を始められることです。そうしたらお子さんは黙っていても勉強するようになります」ということです。

才能とは、努力するのが得意な人と、そうではない人がいるということです。
実はありのパパ自身が努力するのが得意ではありません。
いつも楽な方法はないか「楽して得とれ」みたいな人生を生きたいと願っているのです。

ですから救いが努力によらないで、神の憐れみによることを本当に感謝しています。
もし救いが努力によるものなら、ありのパパなどは今頃、神様から振り落とされていたでしょう(笑)。

3.神の愛は無条件ではあっても無制限ではないゆえに信じて救われるチャンスを生前に限定された

「同胞であるユダヤ人が救われるためなら、私自身はどうなっても構わない」(ロマ書09:03)

これはパウロが自民族であるユダヤ人がイエスの救いを信じて受け入れるなら、自分自身はどうなってもかまわないとの心情を吐露(とろ)したものです。
みなさんにも考えていただきたいのですが、死後に救いのチャンスがあるとしてもパウロはなおこのように言ったでしょうか?
信仰による救いを生前に受けた者だけが永遠の命をもつと理解していたからこそ、パウロはここまで言わなければならなかったのではないでしょうか。
このことからもパウロは死後における救いの可能性を否定していたと見ることが妥当です。

◎私たちもパウロのように「日本人が救われるためなら私自身などはどうなってもかまわない」と言わせていただきましょう。
あなたの周りの方々にイエスの御救いをお伝えすることこそ、みこころにかなったことです。
平安と祝福を祈っています。

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