神の愛を本当に体験するとき

「主イエス・キリストによって顕(あらわ)された神の愛から、どんなものも私たちを引き離すことは出来ない」[ロマ書08:39]
「今経験している様々な苦しみは、将来与えられる栄光に比べるなら、全く取るに足らない」[ロマ書08:18]

どうしたら上記の聖句のような告白が言えるようになるのでしょうか?
それは神の愛を実際的に体験することによってです。
神の愛を真に体験することなしには信仰者であろうとすることは不可能です。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.日本の教会と韓国・中国の教会

戦前、日本の教会は神道原理主義政府の脅かしに屈し、「神の愛から私たちを引き離すことは出来ない」と聖書にあるにもかかわらず、神の愛から引き離されてしまいました。
韓国では命がけの神社参拝拒否の戦いが繰り広げられており、中国では共産主義政府による三自愛国教会(日本基督教団と同じ性格のもの)への強制参加に対する反対が行われ、文字通り何十年もの投獄生活を甘受しなければならなかった数限りない牧師たちが存在します。

日本の教会は戦後も、リベラル派・福音派を問わず、神の愛から引き離されたことを悔い改めませんでした。
これは神の愛からどうして引き離されてしまったのかを真剣に考えるチャンスをキリスト者から奪うことになりました。

①韓国人キリスト者のこと

ありのパパが韓国教会に学ぶために韓国に行ったことがありました。
(旅行社の手違いで)一流ホテルに泊まることになったのですが、そのホテルを出発する朝、ホテルの玄関に立っているホテルマンに「あなたはクリスチャンですか?」とお伺いしたところ、それまでホテルマンの顔だった方が、一転して顔をクシャクシャにして「はい、イエス様に救っていただいてクリスチャンとなりました」とお答えになりました。
ありのパパ「教会はどちらですか?」
ホテルマン「長老教会です」
ありのパパ「どのようにしたら日本の教会も韓国の教会のように成長できるか学びに来てるんですよ」
ホテルマン「神様の祝福を祈っています。」

これだけの会話だったのですが、30年が経とうとしている今でも、その時の光景を鮮明に覚えております。
なぜ覚えているかというと、日本人クリスチャンがこのようなとき、少しも躊躇せずはっきりと信仰告白する姿を見たことがなかったからです。

②中国・家の教会のこと

中国では「家の教会」所属のクリスチャンが全人口の一割を超えていると言われています。
このことと我が国の教会の不振を比較して考えてみるとき、ありのパパは日本の教会がリバイバルしない原因は神の愛を本当には体験していないことにあると考えています。
ではどうしたら、神の愛を本当に体験できるようになるでしょうか。

2.神の愛を体験するには?

①ツボをおさえる

皆さんは「どんなつぼを押せば良いのか?」とお問いになられるかもしれません。
しかし一人一人みな違います。
たとえば貧困の中にいる人には経済的祝福を受けることが神の愛を実感できる唯一の道になります。
セルフイメージが低く、それが原因で様々な社会的不適応が起きている場合は「あなたは私の目に高価で尊い」との主の御声を聞き続けることが神の愛を実感できる唯一の道になります。
子供が不登校で悩んでいる親御さんであれば、良くても悪くてもありのままの子供を愛することを学ぶことによって神の愛をご自分が体験するようになるでしょう。

②律法主義に生きるのを止める

このように一人一人みな違いますが聖霊の働きに共通点はないのでしょうか?
あります。間違いなく共通項というものが存在します。
それは恵みを受ける人の生き方に密接に関係しています。
自分や他人を「良いと悪い」「十分と不十分」という二元論で切り刻みつつ、神に恵みを求めるというのは茶番劇でしかありません。
律法主義に生きることを止めねばなりません。
「そんなの簡単じゃん」と言う人はご自分が律法主義に生きていることに気づいていないのです。
ですから私たちお互いは、まず自分自身が律法主義に生きていないかどうかを吟味する必要があります。

しかしこれは難題であることを認識しなければなりません。
初代教会のエルサレム教会でさえ、律法を守ることを結局やめませんでした。
神から見たら、律法を守るのも、律法主義なのも同じに映ったと思います。

現代教会は目に見える律法は守っていませんが、目に見えない律法主義の厳格な実践者と言えるでしょう。
これが分らない限り、霊の目が開かれたとは言えません。

③気づきを得たら、それによって生き始める

まず他者に物差しを当てるのをやめます。
そうすることによって自分にも物差しを当てなくなります。
そうこうするうちに水の中にせっかくスポンジがあるのにぎゅっと絞った状態で、少しも恵みという水分を吸い取ることができなかったのが、スポンジを握る力が次第に取れて、水の中でリラックスすることができるようになり、恵みという名の水を存分に吸うことができるようになります。

④同じところにとどまっていない

霊的にも、聖書の理解においても、仕える僕(しもべ)の精神においても、殊に人間関係において、停滞しないことです。
信仰は自動車の運転とは違います。
どちらかというと一輪車のようです。
止まると倒れてしまうのです。
ですから立ちどまることなく、常に前進を目指しましょう。
これは行け行けどんどんとは全く違うことです。
より深く受容できるようになり、より深く共感的理解を示すことができるようになることです。

⑤自律した信仰者になろう

いつまでも人に聞いてばかりで、自分で判断できない人に神の祝福を受け続けることは難しいことです。
なぜなら必ず人生途上でサタンの攻撃があるからです。
そのとき何が正しいことで、何が間違っているのかを自分で識別する洞察力と判断力がなければなりません。
現在カルト化した教会が問題になっていますが、彼らには愛がないということと共に識別力・洞察力がありません。
しかし誰にもそのようになってしまう危険があります。
人事(ひとごと)ではなく、自分の教会の問題として受け止めていく必要があります。

◎以上ですが、最後に一言。
こんな偉そうなことを書いて、実は自分でもおののいているのです。
ありのパパに、これが実践できているわけではありません。
しかし神様の恵みと助けと憐れみをいただいて、今日書かせていただいたことを自分自身でも不十分ながらも実行しようとしている一人のキリスト者に過ぎません。
共に励んでまいりましょう。

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