情欲に従うと滅びる。御霊に従うと生きる。御霊に従う秘訣はこれだ!

すべてのクリスチャンが自らのうちに力強く働く情欲の存在に頭を悩ませているのではないでしょうか。
未信者のときよりもクリスチャンになった今の方が、この問題について悩んでいるのではないかと思うほどです。
このような状態で教理書簡と呼ばれるローマ人への手紙などを読むと、何か打ちのめされるような思いを持つのはありのパパだけでしょうか。
そこで今日は聖書を一字一句厳密に読み直して、聖書が言わんとする真意をともに学んでいくことにしましょう。

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1.ローマ教会への手紙には何と書かれているか?

ロマ書08:12以降には以下のことが書かれてあります。

a.救われた私たちには御霊が宿っている。

b.生まれながらの古い人に従って生きる義務がない。

c.もしクリスチャンがなおもこの古い人に従って生活するなら滅びる以外にない。

d.しかし御霊によって情欲に打ち勝つなら生きる。

e.そして私たちのうちに内住する御霊は人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊ではなく、神を父と呼ぶ霊である。

f.私たちが奴隷のようなクリスチャン生活ではなく、神をお父ちゃんと呼び、信頼するようなクリスチャン生活を送っているなら、今の時の色々な苦しみは将来与えられると定められている神のすばらしい贈り物に比べれば、全く比較にならないことに合点が行く。
その贈り物とはキリスト再臨のとき、神の子として完成されること、つまり私たちの体が復活することである。

2.ただ厳しいだけではない。解決の道が示されている

この部分を読んで恐れおののくのは「もし古い人に従って生活するなら、滅びる以外にない」と書かれていることです。
ここには少しも、信じた人はみな救われるとか、どんなに罪を犯しても大丈夫とか、イエス様は必ず救ってくださるとか、あんこに砂糖をまぶしたような甘~い甘~い福音はどこにも出てきません。

滅びたくないなら御霊に従うことです。
しかし「御霊に従うって何?」というのがクリスチャンの本音ではないでしょうか。
ですから問題解決のカギは御霊に従うすべを身に付けることです。
これができれば万事解決です。

3.どうしたら御霊に従うことができるのか?

ありのパパは何とか御霊に従おうと、肉の力に頼って頑張っていた時期がありました。
しかしこれは良く考えると(良く考えなくても)おかしいのです。
「肉の力に従うと滅びる」と言われているのに、なぜ御霊に従うために生まれながらの肉の力で頑張るのでしょうか。
全くの的外れです。
このことに気づいたとき、ありのパパはお手上げ状態になりました。

その時、神様に示していただいたのは、ありのパパが「従う」ということを間違って捕らえているということでした。
間違って捕らえているから、正しい従順が出来ないのであり、もし正しく従うことさえ出来たら、従う力は御霊から無尽蔵に与えられることが出来るのです。

4.御霊に従うとはどういうことか?

それは判断において、行動において、すべての事柄について

a.二元的なものの考え方を打ち破り、一元に生きる生き方を実践することです。

b.自分に一番近い隣人である自分自身をありのままに受け入れ、こんどは現実の隣人をありのままに受け入れ愛することです。

c.私たちを奴隷状態にしてしまう律法に生きず、私たちを神様との暖かい親子関係に導き入れる福音にのみ生きることです。

5.御霊自ら働いてくださるようになる

このような生き方を日々実践するとき、御霊自らが私たちのうちに働いてくださるようになります。
そうです。機械的に何かして(そのために聖書を読んだり、祈ったり、ディボーションしたりすることによって)御霊に働いていただこうとすること自体が、愚かで無意味なことなのです。
御霊は霊であり、風のごとく目に見えない霊の働きであり、ご自分の願うままにお働きになるのです。
ですから大切なことは御霊が好ましいと思われるような生き方を私たちが実践することです。
その時、御霊は私たちの祈りと願いに答えて「私たちと共に働いて」私たちに御霊に従う生き方を可能としてくださいます。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんにちは。

    ヒラぴゃんさんの息子さんへの接し方を拝見するとき、福音書の中にある放蕩息子の父親の接し方を見るようです。(息子さんが放蕩息子だと言っているのではありません。)
    何かあると躊躇せず駆けつけてくれるヒラぴゃんさんを見て、きっと息子さんはそこに父なる神の愛を見ることになると信じます。

    そのアクシデントが良き方向へと向かいますよう、お祈りします。

  2. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。

    予定では今朝、早朝に帰ってくるはずだったのですが、昨晩帰ってくることができました。

    アクシデントは無事に解決できました。
    そのことで、証したいことがあります。

    実は、土曜日の夜10時頃、息子から電話がありました。

    「財布を落とした。現金のほかに、運転免許証、学生証、健康保険証、銀行のキャッシュカード、郵便局のキャッシュカードが入ってる。落としたと思われる道を3往復して探したけれど、見つからない。警察には届けたけど、これからどうしよう・・・」

    さあ、困った。とりあえずキャッシュカードは凍結しなければ、ということで、ネットで当該銀行やゆうちょ銀行の夜間窓口の緊急連絡電話番号を探して、口座凍結解除の手続きを済ませ、とりあえず一安心。

    しかし、今度は、息子の手元には現金が一円もなく、しかも口座を凍結してしまったため、送金のルートもなくなり、また、今後の対処についても本人はオロオロしてしまっているため、とりあえず急場の生活費を持って息子の下宿に行き、そこで一緒に今後の対応を考えようとして、夜中に息子の下宿がある浜松に向かったのです。

    真夜中に到着して仮眠し、翌朝(日曜日)早くおきて、パパさんの掲示板に書き込みをしてから、寝ている息子をおいて近くのコンビニに朝食を買いに行きました。その帰り道、下宿近くの教会の前を通りかかると、本日の礼拝案内の看板がかかっていました。

    そこには、本日の説教「祈りは必ずきかれる」とあるではありませんか。

    確かに、これまでも困ったときに神さまに祈ると不思議な方法で神さまが解決に導いてくださることが何度もありました。でも、不信仰な私は、喉元過ぎれば何とやらで、それが神さまが祈りに答えてくださったということを深く考えも感謝もせずに過ごしてきたなあ、ということを思ったのです。

    それで、苦しい時の神だのみのようで申し訳なかったのですが、たまたま通りかかった近くの教会の本日の説教題が「祈りは必ずきかれる」であったことは、きっと神さまの導きかもしれないと思い、下宿に戻る道すがら、心の中で「神さま、いつも神さまに祈りを聞いて助けていただいているのに感謝もせずにいたことをお赦しください。今、息子が困っています。運転免許証もないので、バイトに行くこともできません。どうぞ助けてください」と祈ったのです。

    その教会の礼拝は10時20分からだと案内板に書いてあったので、10時になったら下宿を出てこの教会に来ようと思いました。

    下宿に戻り、息子を起こして本日の行動の打ち合わせ。
    午前中に教会に行ってから、昼食をとり、警察に行って免許証の再交付の手続きについて教えてもらったり、また、雨が降っているので夕方から深夜にかけてのバイト(6kmくらい離れている場所)に送り迎えして、月曜日の朝はやく帰る、みたいなことを相談しました。

    ひと段落して、礼拝に出かける予定時間の10時まで一休みしました。
    目覚ましをかけて、ちょっと眠り、9時55分におきて、そろそろ礼拝にいこうかな、と思ったとき、息子の携帯が鳴りました。

    息子が電話に出て話しているのを何気なく聞いていると

    「はい。・・・はい。・・・そうです。・・・はい・・・夕べ落としたんです。・・・・はい。・・・はい。・・・・ええ!ありがとうございます。それでは受け取りに行きます。」

    電話を終えて「パパ!今警察から電話があって、財布が届いたって!」

    おお!!!神さまは確かに祈りに答えてくださった!!!

    息子に、今朝の祈りのことを話すと、息子は笑っていましたが、私は大変に厳粛な気持になったのでした。

    確かに神さまは生きて働いておられ、今も祈りに答えてくださる!!

    そんなわけで、アクシデントは無事に解決し、私は予定を繰り上げて昨晩のうちに帰ってくることができたのでした。

    これを単なる偶然という人もいるかも知れませんが、私たち親子にとってはまさに「奇跡」としか言いようのない出来事でした。

    感謝!!

  3. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    ちなみに、夕方、下宿から出て家に帰る途中、その教会の前を通りかかったときには、すでに今朝の看板はとりはずされ、来週の看板に交換されていました。まるで、今朝、私がたまたまその前を通りかかるのをみはからって「祈りは必ずきかれる」という言葉を備えてくださっていたような感じがしました。

  4. ヒラぴゃん より:

    今回の出来事は、私にとってある種のショックでした。

    私は、信仰というものは直接のご利益を求めるようなレベルのことではなく、もっと高尚な、もっと抽象的なものだというような考えが心のどこかにありました。

    もちろん、キリスト教がご利益宗教でないことは当然のことですが、今回のように神さまが私たちの現実生活の中に直接介入してくださるということも、ある意味で軽視していた面がありました。

    聖書が「神の言葉」だということをめぐっても、私の理解は、色々と理屈をつけて自分が納得できるような思考をめぐらせてから、それを受け入れるというような感じでした。

    福音派の人のように、聖書は直接的な意味で神の言葉だというように素直には信じられない自分がありました。

    そして、福音派の方々の「聖書はそのまま神の言葉」だという主張をある意味で軽くみていた自分がありました。また、信仰の体験ということについても軽く考えていました。

    しかし、今回のようにあまりにも直接的、具体的な体験をすると、神さまについても、聖書についても、もっと素直に信じてもいいのかな、と思わされました。

    • ありのパパ より:

      ヒラぴゃんさん、おはようございます。

      良き証をお伺いでき、感謝をいたします。
      これだから人生はやめられないとしみじみ思わせられたことでした。