裁かない大人が子供の成長に必要。裁かない大人になる方法とは?

子供を成長させるために、大人はどのように対応すればよいのでしょうか?
ある校長先生の経験から、そしてありのパパの失敗から学びます。

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1.どんな子にも良いところがある。それを信じる

長く盲学校の校長先生をされた方がインタビューに答えておられました。
生徒が問題行動を起こしたとき、担任の教師を呼んで、質問をします。
その質問とは「その生徒の良いところはどんなところですか?」ということです。
そうしますと良い教師はすらすらと次々に、その生徒の良いところをあげます。
しかし、そうではない教師に同じ質問をすると、困ったように「あの生徒に良いところなどありません」と答えます。

同様に問題を起こした生徒の両親を呼んで質問をすると、次々に良い点をあげる親御さんと、「あの子にいいところなどありません」と答える親御さんに分かれるそうです。

問題行動を起こした生徒が朝一番に庭の草木に水をやるのを知っていた校長先生は「しかしお子さんは毎朝かならず庭の草木の水やりをなさっているのではありませんか?」と尋ねると、親御さんは不意をつかれたような顔をなされ、「そうですね。言われてみるとあの子にも良いところがあるのですね」と言われます。

2.見捨てない教育は長所を伸ばそうとする

この校長先生は「教育とは専門的な知識を教える以上に、見捨てないことが教育そのもの」と言われました。
また「子供の短所に目を向けず、長所に目を向ける」ことが大切であると語られます。

これはまさに言うは易く行うは難しです。
私たちはどちらかというとまず短所に目を向け、その短所を克服するように指導するものではないでしょうか?

しかしその短所が社会で生きていくときに致命的な問題になるならいざ知らず、「個性の一部」と言ってよい場合もあるのではないでしょうか?

問題の核心は子供の問題行動ではなく、子供の長所を見ようとせず、短所ばかりを見てしまう大人たちの病んだ心の有り様にあるのではないでしょうか?

子供を治そうとする前に、まず自分の心が癒されていなければなりません。

このような自己理解を持つようになると、子供に対しても余裕のある対応が出来るようになります。
私・完璧な人、あなた・不十分な人という二元の壁を打ち壊して、私もあなたも不十分であり、完璧にはほど遠いけれど、なんとかゴールを目指してやっていこうという共感性に満ちた眼差しをもって対応できるようになるでしょう。
これが一元に生きる生き方であるのです。

ここで終わりたいところですが、そうはいかないようです。
ちょうどこの文章を書いているときに、教育相談所の指導員が態度の悪い子供に腹を立て顔面を殴り、全治10日間のけがを負わせたというニュースを見ました。
この指導員はまさにありのパパ自身ではないかと、神に言われているように感じましたので、過去の体験をお証させていただきます。

3.区別していると愛はなくなる

奉仕先の教会で登校拒否生徒のお世話をさせていただいたことがありました。
その生徒さんは高校生であったのですが、毎朝の早天祈祷会出席のために起きることが苦手でした。
ありのパパは考えた末に、ある作戦を実行しました。
それは起きない生徒のかたわらに座って(映画監督になるのが夢であると聞いていましたので)「あぁ、君の将来が見えるぞ。君はハリウッドで映画を撮っている」と言い続けました。
そうしましたところ、彼はぼそっと「仕方ない。起きてやるか!」と言い、がばっと飛び起きたのです。
私は神に感謝しながらも、おなかの中では「してやったり!」とほくそえんでいたのです。

しかし段々と、ありのパパ自身の中に変化が起きてきました。
それはいつまでたっても変わらない(学校に行くと言わない)子供たちに対して冷淡になって行ったのでした。
これは子供たちとつきあいだして約半年ごろのことでした。
その変化を悟られないように隠しましたが、カウンセラーのうそは必ずクライアントに見抜かれてしまうように、子供たちにも見抜かれていたと思います。
そのためか子供たちは様々な問題行動を起こしました。
私は何食わぬ顔をして、その問題に対処したのですが、一旦冷えた愛情が復活することはないままインターン期間を終えたのでした。

今振り返ってみて、愛情を持てなくなってしまった原因を改めて考えてみると明確に分かることがあります。
それは「私・治す人」、「君・癒されていく人」という二元的な理解のもとで接していたということです。

これはとりもなおさず、自分は癒されている人であり、あなたはまだ癒されていない人という区別でした。
これでは愛情が枯渇(こかつ)するのは当然です。
なぜなら一元に生きる生き方とは「私もまだ完成途上ではあるが、君よりも先に神の恵みに預かることが出来た。だから君にも私を成長させてくださった神のいのちをおすそ分けしたい。一緒に成長していこうではないか」という生き方です。
このような生き方であるとき、共感的理解という名の愛情が枯れることが決してないのです。
神の憐れみによって、この「共に生きる生き方」を実践させていただきたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。

    ご自身の正直な告白と反省を込めた文章を読ませていただき深く感じ入りました。
    こういう問題は、ともすると理想論や理屈に終始しがちで、自分をその当事者、しかも悪い意味での当事者と認めることは、なかなか人間にはできません。

    その点、パパさんがこの問題提起をされて後で、ご自身の体験をお証しされたことには、大変説得力があります。

    自分の目の梁には気づかすに、相手の目の塵を取ってあげようという姿勢は、聖書の昔からあったようですが、人間の罪性というのは、時代にかかわらず存在するものだなと思います。

    私も妻や子供たちに対して、同様の二元論的な態度で接してしまい、反感や反発を買うことがしばしばです。

    理屈では「これではいけない、自分にも悪いところがあるんだから」と思うのですが、自分かわいさ(それが「罪」の本質でしょうが)で、自分は安全圏にいて、相手ばかりを責めてしまうのです。

    パパさんが、以前、リベラル派とのやりとりの中で嫌な思いをされた時にも、多分、そのリベラル派の人は、自分は正しくて福音派は間違っているという二元論でものを言ってしまい、その結果、パパさんを傷つけ、またリベラル派に対する反感を植えつけてしまったのではないかと思います。だとしたら申し訳ないことだと思います。

    相手の悪いところだけを見て叱ったり攻撃したりするのではなく、相手の良いところを見つけてほめてあげることが大切だと言うのは、私の妻の持論です。

    私は現在はお休みしていますが、教会学校の教師を長年やってきました。
    教会学校に来ている子供たちの中にも、いわゆる良い子もいますし、いわゆる手のかかる子や腕白な子もいます。
    パパさんの体験を読んで、自分にも同様のことがあったなあと思わされました。

    教会学校の礼拝中に騒いでいたり、ふざけていたり、規律を守らない子がいると、最初のうちは平静を装って静かに、もの分かりがいいような態度で注意するのですが、それでも子供たちが言うことを聞かないと、叱ってしまう。しかし、それは正確には「叱る」のでなく「怒る」っていたのだと思います。

    相手のことを考えて、相手に良くなってもらいたいという気持で「叱る」のではなく、自分の思い通りに相手が動いてくれないことに対して「怒って」しまう。これでは相手との関係はますます悪化するばかりですね。

    パパさんの文章を読んでいて、ふと気づかされたのは、私が他人の悪いところに対して怒りをぶつける、その深層には、実は、相手の悪いところが実は、自分自身も持っているものなのだということに対する罪悪感や嫌悪感があって、それに対して怒りをぶつけているのではないか、ということです。

    「反面教師」とか「他人のふり見てわがふり直せ」という言葉がありますが、それが良い形で出てくれば良いのですが、悪い形で出てくると、自分を反省するのではなく、相手の中に自分の悪い面を投影して相手を叱ったり攻撃したりする。これでは相手はたまったものではないですよね。何しろ、こちらは無意識的に「自分」を叱っているつもりなのだから容赦がないわけです。また罪悪感もないわけです。何しろ、それは深層心理においては「自己反省」なのですから、反省し、自己批判することは良いことだという無意識が働いてしまう。でも、実際にその怒りの対象にされているのは自分自身ではなく他人なのだ、ということには目をつぶっている。

    こう考えてみると、私の中に巣食っている罪のために、実に多くの人たちを犠牲にしてきたんだなあ、ということに気づかされました。

    今後は、相手の悪い点に怒りを覚えたときには、怒る前に「ああ、これは自分の悪いところを神さまが教えてくれているんだ。自分が今感じている怒りは、自分自身に対する怒りなんだ」と冷静に考え、反省するようにしたいと思います。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    リベラル派の方とやりとりしたのはヒラぴゃんさんが初めてです。
    ただネットでリベラル派の方のブログなどを見ると、福音派に対する憎悪で満ちているときがあるので、戸惑いを覚えることがあります。

    そのような方のうちのお一人は、ご両親がペンテコステ派で、ご自身も幼いときから、その異言派とも言うべき教会に通い、その異様さにおののいていたそうです。

    成人してから、リベラル派の成熟したクリスチャンに出会い、こんな自分でも生きてていいんだと思ったとのこと。

    この方が言うのに「こうして私は今日も仕事をすることが出来る。」

    もしリベラル派との出会いがなければ、満足な社会生活を送れないほどに心に傷を受けていたようです。

    難しい問題ですが、教会がカルト化していなくても、このような問題が起こりうるのですね。

    それが心理的要因となって激しい福音派教会への攻撃につながっているのではないかと、私は推測しています。

    しかし攻撃されているときこそ、真摯に対応しなければなりませんね。
    (もし私が本当に救われているのならば)