罪からの解放は瞬時的、品性の結実は漸進的、この区別が重要!

ホーリネス系の教会では罪から解放されることと、品性が結実していくことは別物であると理解しています。
これに対して長老派教会は聖化と品性の結実を同一のものと理解しています。
今日はこれについて考えます。

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1.しらふを維持するのと短所を取り除いてもらうのは別のこと

話を見えやすくするために、アルコール依存症を例に引いて考えてみることにいたします。
「罪を犯す」ということを「再飲酒すること」に、「AA」を「教会」に、「ミーティング」を「集会」に置き換えながら、お読みくだされば分かりやすいと思います。

一般的なクリスチャンですと、日常生活の中で罪を犯しても、それは些細なことであり、少しずつ潔(きよ)められていけば良いと考えがちではないでしょうか?

しかしアルコホーリック(アルコール依存症者のこと)はそうはいきません。
なぜなら彼らにとって再飲酒は死を意味します。
ただの一度でも再び飲んでしまえば、その一杯で死んでしまうかもしれないのです。

ですから彼らは飲まないために必死です。
しかしどんなに努力したとしても、やっぱり飲んでしまうことになります。
そして彼らは絶望します。これを底付きと言います。

多くのアルコール依存症者が死ぬしかないと思い定める直前にAAとの出会いを体験します。

2.アルコール依存症の相互支援グループのこと

AA(アルコホーリック・アノニマス[アルコール依存症者の自助グループ])では、

a.再飲酒しないための力が自分にはないこと、
b.しかし神にならこんな自分をお変えになることが出来ると信じ、
c.自分の人生を神に委ねることを決心した。

この三項目に同意することを入会に際して求めます。(同意しなければ入会できないということではありません。)

この三項目は有名な12ステップのはじめの三つのステップであり、入会後はスポンサー(個人的に指導してくれる元アルコール依存症者)とともに12ステップを続けてやっていくことになります。
それとともにミーティングに出席し、自分のことを話し、また他の人の話を聴きます。

このようにして彼らはなんとか再飲酒しないですむために必死の努力を行います。
ただその努力の源泉が自分にではなく、神にあるのです。

3.品性の結実は短所を取り除いてもらう過程にほかならない

このようにして多くのアルコホーリックが飲まない期間を更新していきます。
しかし彼らは言います。
「ただ飲まないというだけでは、再飲酒しない保証にはならない」

それどころかただ飲まないという状態にとどまっていては、いつかは再飲酒することは不可避であるとします。
ではどうしたら良いかといいますと、なぜアルコールを依存症になるほどまでに飲んだのかの原因を探り、その原因を取り除くことです。
(この部分はクリスチャンで言えば品性の結実にあたります)

AAではその原因を大きく分けて三つあるとします。

a.セルフイメージの低さ

自分は愛されるに値しない存在であるとの思い込み。
それを隠すために虚勢を張ったり、大風呂敷を広げたりします。
常に偽りの自分を演じますから、疲れます。
この疲れが飲酒につながったのです。

b.自己中心

世の中は自分を中心に回っているとの思い込み。
人は自分のことを大切にして当たり前。
自分は大切にされて、受け入れられ、おだてられるのが当たり前であるとの錯覚。
この思い込みと錯覚に気づかないため、飲酒します。
酒を飲んでいれば現実に直面しないで済みますから。

c.未熟さ

ストレスを解消する方法はいくらでもあるにもかかわらず、その道を探らず安易に飲酒に走った。
確かに酒を飲むことは簡単なストレス解消法であるが、それは命懸けのストレス解消法であることに気づかなかった。

この三つの方面から、自分を成長させていきます。
はじめの頃はすぐムッとしたのに、今は「あの人にもあの人なりの理由があるのだ」と自然にそう思うことが出来ている自分に気づくようになります。

4.キリスト者が12ステップから学べることは何か?

長く飲まないでいる期間を更新している人たちは、皆一様に二つのことを言います。

一つ目は「たとえ何十年飲まなかったとしても、これからも飲まないでいられることの保証にはならない。ただ神様だけが私に力を与え、飲まない人生を続けさせてくださるのです」

二つ目は「私はアルコール依存症になって良かったと思っています。なぜならそれによって私は自分の問題、即ちセルフイメージの低さ、自己中心であること、未熟であったことに気づくことが出来ましたから。もしアルコール依存症にならなかったら、今でも鼻持ちならない気位ばかり高くてどうしようもない自分のままであったと思うのです」

さて、私たちはここから何を学ぶことが出来るでしょうか?

a.罪を犯さないで生活することは神の恵みと力による。(瞬時的)

b.品性の結実は性格上の欠点を神に取り除いていただく営みを日々に繰り返すことによる。(漸進的)

この二つが私たちが学ぶことができる点です。

「患難によって忍耐を自分のものにでき、忍耐は私たちを立派な品性の持ち主とし、立派な品性は永遠の救いへの希望を抱かせる」(ロマ書05:03-04)

◎平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。

    アルコール依存症のカウンセリングのことを具体的に教えて下さり、ありがとうございます。

    クリスチャンの生き方と色々なことで共通するものがあるのですね。
    「アルコール依存」を「罪」と置き換えると、まったく自分に該当することを教えられました。

    自分の力で頑張って聖い生活を送っていくことなどできないことは、現実の自分の姿を見ているとよく分かり、ホーリネス派の聖化の教理をうらやましく思うと同時に、本当にホーリネス派の人たちは「聖め」られた生活を送っているの?という疑いの気持もあり、「聖化」は、この世に生きている限りは完成するものでなくて、「終り」の時に完全なものと変えられるときの出来事だと思っていました。

    こんなことを言うと、ホーリネスの人から怒られるかも知れませんが、日本でのホーリネス派の創始者である中田重治の生涯を読むと、ホーリネス派をここまで大きくした力量は大したものだと思いますが、実際にはかなりワンマンな教団運営をしていたようですし、晩年には教理的にも脱線気味になって、それを正そうとした聖書学院の教授たちのグループと対立し、さらには彼らのいうこと(中田が監督職を辞任するという臨時総会決議)を受け入れながら、後でそれを翻して拒否し、裁判沙汰にまでなってしまったということ。また中田の孫である辻宣道先生の自伝を読むと、中田重治の長男の中田羽後が戦後始めた聖書学園で学んでいたとき、様々な嫌がらせや酷い仕打ちを自分や母(羽後の妹)が受けたことなどを語っています。

    例えば、辻先生はこのように言っています。

    「すくなくともこの学校の初期の理想は高く評価されてよい。だがここも赦された罪人の集まりである。経営をめぐる対立がいつとはなしに起こってきた。それが知性と教養に関する違和感からなのか、もっと俗な力関係の分裂なのかそれは知らないが、奇怪な流言が飛び、策動が横行し、一年たつかたたぬ間に目もあてられない状況へ追い込まれていった。そこはもうビュウラの地(イザヤ62:4)でも何でもなく、憎悪と軽蔑の渦まく、まったくの世俗化された世界であった。」

    「なぜか、いわゆる聖潔派とよばれる人たちは、事柄を論理的に厳密に考える習性に欠けているようである。私は祖父中田重治の晩年を人から聞かされ、悲劇的な終末を気の毒に思っていた。だが、ここに繰り返された事柄は、全く同じような非論理と、むきだしの無教養であった。学校内に居住していた母は、その渦中で去就に迷い、日増しに伯父と対立的になっていった。伯父の感情的な報復が私に加えられた。時期になると見事な花をつける桜の並木があり、私は春が来る度にその下に立ち、暗い顔になった。一体その頃の私は何を勉強したのだろうか。いってみれば肉体にきざみこまれるニヒリズムしかなかったようだ」(「教会を見いだすまで」『嵐の中の牧師たち』収載)

    辻先生は、戦後、傾いていた静岡草深教会に赴任し、そこで亡くなるまで牧会して、草深教会を信仰的・神学的にゆるぎない一流の教会(変な言い方ですが)に育て上げ、日本基督教団の総会議長まで務めた方です。辻先生の書かれた本を読むと、どの本も、歯に衣きせぬ率直な書き方に圧倒されながらも、教えられること大です。

    辻先生はホーリネスの教会で育ちながら、そこでの信仰のあり方を反省し、神学校を卒業してから独学でカルヴァンを学び、改革派神学の理念をもって教会を牧し、成長(単に人数だけでなく、信仰的・神学的な意味でも成長)させた方です。

    このような話を聞くと、果たしてホーリネス派においては、本当に「ホーリネス」は血となり肉となっているのかどうか、わからなくなってしまうのです。

    その点、パパさんはどうお考えになるでしょうか。

  2. ありのパパ より:

    ヒラぴゃんさん、おはようございます。

    ヒラぴゃんさんのコメントをお読みして、私自身が聖化の問題で悩んでいた頃を思い出しました。
    その原因は聖書に自分の願いを読み込んだことであると思います。
    中田先生のお子さんは、その思い込みをリセットするためにカルビン主義神学を学ばれる道をとられたのではないかと推測します。
    私はペンテコステ神学への傾倒によって、その思い込みを脱したのかもしれません。

    1.聖書に読み込んだ願いとは「完全論」と呼ばれる神学の潮流です。
    ネストリウスもその流れに分類されたかと思われます。(すいません。ただ今出先から返コメしておりまして、確認するすべがありません。)
    「完全論」の流れの中には救いの十全さを言う者から、果ては神のようになると言う者までおります。
    この「完全論」は日本人に強くアピールするものとなったことはご存じの通りです。
    「完全論」という理念で日本人の精神性に強い共感を与え、「四重の福音」で人間の必要を満たしました。
    福音宣教の戦術としては評価できると思います。
    完全論は、洗脳とは違いますが、洗脳と同じぐらい強い効果があります。
    18世紀英国でも20世紀日本と同じく、完全論が爆発的に受け入れられました。

    2.聖書が言う聖化とは、アルコホーリクが再飲酒しないですむこと以上のものではないと、今は理解しています。
    ホーリネス運動が「原罪の除去」にまで進んだのは明らかに誤りであり、完全論の聖書への読み込みであると考えています。

    3.時代の制限性
    18世紀英国にはカウンセリングが存在しませんでした。
    ですから酒を飲まなくなった人が、なぜ再飲酒の欲求にかられるのかを合理的に説明しようとすれば、「救われた後も残存する罪の性質」から説明するほかはなかったと推測します。
    「救われた後も残存する罪の性質」と一旦規定してしまえば、それが「残存する罪の性質の除去」に進むのは、論理的展開としては極めて当然のことであろうと思います。

    4.ホーリネス運動の功績
    罪からの解放と品性の結実を分けたことです。
    聖化を死に至るまで完成しないと考える理解は、罪を犯さない生き方と品性の結実を混同しています。
    しかしアルコホーリクの例を見るまでもなく、酒を飲まない生き方が死の時まで実現できないとしたら、そんなものはなんの価値もないことはすぐにお判りになると思います。

    5.ホーリネスの人々はホーリーな人々か?
    この答えは明らかであると思われます。(笑)
    聖書が何と言っているかを正確に知ろうとしないことは、人生を棒に振ることにつながると思います。
    (話は変わりますが)リベラル派キリスト教に対する問題意識もここから発しています。
    しかしヒラぴゃんさんとの交わりを通して、聖書の言わんとするところを正確に理解しようとの動機に基づいて、それが行われていることを知りました。
    少なくとも動機は善であることを理解しました。
    今までは悪意をもって聖書を理解しようとしているのかと誤解していました。
    でも、すべてのリベラル派クリスチャンが善意に基づいているかという問題は残ります。
    私にはどうしてもそう思えないこともあるのです。

    「聖書をそのままに理解する。」ことは、そんなに簡単ではないことが、自分の人生を通して判りました。
    ですからホーリネス運動に現在も属する人々に対して、何のわだかまりもありません。

    長々と失礼しました。