預言者の中に武士そのものの人がいた!その名はヨナ!

武士道というと日本人の専売特許のように思いがちですが、そうではありません。
聖書のなかに、武士の中の武士とも言うべき人が出てくるのです。
それが預言者のヨナです。
では早速ヨナさんを見ていきましょう。

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1.ヨナの不従順

預言者のヨナは神様に、その当時の大都市である二ネベという町に預言をしに行くように命じられるのですが、「わしは嫌じゃ。」と言って、神の命令を拒んでしまいます。
預言者が預言をしないで、いったい何をするのかとありのパパなどは思うわけですが、ヨナにはヨナの理屈があり、その自分の考えを神の言葉より優先します。
しかし結局はすべてをご支配なさる神の御手から逃れることは出来ず、従順します。
その預言の内容は、「悔い改めないと、裁かれる。」というものでした。

驚くべきことにその当時12万にも及ぶ市民や王様が、その預言に従い、真実に悔い改めをしたのでした。
そうして神は裁くことを思いとどめられたのですが、気に入らないのはヨナです。
なぜかというと、「自分が滅亡すると言ったら滅亡しなければならないのだ。そうでなければ私の面子(めんつ)はまるつぶれではないか!」というわけです。
ヨナの神に対する愚痴ともつかない抗議の言葉をご覧ください。

「私の語ったことは嘘になってしまいました。私はもう、生きているよりは死んだ方がましです。それで主よ、どうか今、私の命をお取りください。」(ヨナ04:03)
自分の意見が通らなかったし、尊重されなかった。
だから私が腹を立てるのは当然のことだし、私がどれほど腹を立てているか見せつけてやるために、腹を切ってやる。
というのが切腹であり、武士道精神の本質です。
これと全く同じスピリットを持った預言者がいたことに、おかしみを覚えるとともに、人間は多かれ少なかれ、このような感情を有しているのだと頷(うなず)かされるものです。

2.他の選択肢は無かったのか?

頭に来て「もうどうにでもなれ!」とキレてしまう前に、自分の何が問題だったのかを省(かえり)みることが出来たはずです。
「死ぬ!」「死んでやる!」とわめく前に出来ることはいくらもあったのです。
それをせずに自分の命をthe endとしてまうことは、あまりにももったいなさ過ぎます。

ヨナの問題点は、現代に生きる私たちに共通する問題でもありますが、それは自分の神学の範囲内といいますか、自分の理解できる範囲で神を理解しようとし、その領分を超える神の働きを否認することです。
挙げ句の果て(あげくのはて)に、判らないことは判らないとすればまだ良いのですが、完全に的外(まとはず)れな理屈をつけて誤った態度をとるということがあります。
ちょうどこのヨナのように。

もし皆さんがヨナであれば、どのような対応をされるでしょうか。

ペテロについて言えば、神が福音を異邦人にも宣べ伝えようとご計画しておられる時、ペテロにはそのご計画に対する神学的備えがまだありませんでした。
そのようなペテロに対して神は幻をもってお導きになられたのですが、ペテロはヨナとはちがい、正しい対処をすることができました。
すなわち今までの自分の神学を変更し、神の新しいご計画に対して霊的な目を開き、神のみこころに従うことを選び取りました。

ヨナのように自らの本質を問われるような人生の岐路に立たされることが誰にもあります。
その時、武士のように自分の思い通りにならないと切腹をして神に逆切れするのか、それともペテロやパウロのように、神を変えるのではなく自分が変わる道を選び取るのかで人生が決まります。

自分がいやしくされ、神が尊ばれるのを喜ぶことが出来た。
確かにこれは(自分の預言が一見はずれたように見えること)自尊心が傷つくことです。
しかし自分のことを本心で「虫けら」「罪人のかしら」と思っていたら、傷つくはずはないのです。
心のどこかで「自分もたいしたもんだ」と思っているからこそ傷ついたのです。
それを気づくことが出来ただけでも感謝ではありませんか。

自尊心という名前の幼児性が傷つくたび、心の中で「むっ!」とします。
そのたびごとに神に祈ります。
「誰も私のために生きているのではないことを気づかせていただき感謝をいたします。」

3.神の憐れみによる契約をのろいとしてとらえる危険

約束を守ったら救われて、守らなかったら滅びるというのは、結局、律法主義であり、罪の呪いの中にあることです。
罪の呪いは、ただの一度でも罪を犯すと、約束は無効となり、私たちは罪に定められるのです。
救いとは、そうではなく多くの罪を犯したにもかかわらず、ただ一度限りのイエスの十字架の贖いによって罪を赦され、義と認められることです。
なんと大きな違いでしょうか。
旧約時代であっても救いの原理に生かされて生きた人がいたにもかかわらず、新約の時代であっても福音を信じつつ、その福音を律法として生きている人々もおります。

◎私たちはヨナのように神の呪いの業がなされることを喜ぶ者でしょうか。
それとも神の憐れみがなされることを喜ぶ者でしょうか。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。
    昨日は、夫婦で日帰りで息子のところに行ってきました。
    息子が今住んでいる下宿を変わりたいというので、大家さんと話し合って円満に出れるようにし、miniminiで新しいアパートを探して、契約を結び、引越の段取りまでつけるという作業を1日でやったので、大変なハードスケジュールでした。疲れた・・・。

    帰りに夕食をとるために寄ったパーキングエリアの大きなテーブルで食事をしていると、30~50代の年齢の方々が5~6人、私たち夫婦の前に座り、食事をとり始めたのですが、見るともなしに見ていると、皆さん食事の前に黙祷しておられ、その後の会話でも「○○兄弟が、××姉妹が・・・」と言われているではありませんか。目の前には年配のご夫婦が2組座っておられ、その雰囲気がまるで牧師夫妻のようだったので、これはきっとどこかの教団で集会があり、みんなで参加した帰りだな、と思い、「失礼ですが、クリスチャンの方ですか?]と声をかけてみました。

    すると、一瞬戸惑ったような様子ですが、すぐに「はい。そうです。エホバの証人というグループです」という答え。

    さすがにそれは想定外だったので、私も面食らいましたが、こちらから声をかけた以上、失礼な態度はできず、「ああ、そうなんですか。私たちもクリスチャンなんですよ。そちらは、どこからかの帰りなんですか?」

    「はい、こちらで静岡県の会衆の大会があって、それに参加した帰りです」

    みたいに、結構お互いに多少戸惑いながらも和やかに会話のひと時を持ちました。

    なかなか貴重な体験でした(宗教論争は一切しませんでした(笑))

    今日のブログのタイトルを読んで、最初はタイトルの意味がよく分からなかったというか、「ヨナが武士の中の武士」って、ヨナはそんなに「立派」な人だっけ?」と思ったのですが、読んでみて意味が分かりました。

    日本人は「武士」っていうと、それだけで「立派」な人の代名詞みたいに思いがちで、自分もそんな風に思い込んでいたのですが、そういう意味で「武士の中の武士」と言われたのではないのですね。読者がそういう風に勘違いして読むことを想定して、あえてこういうタイトルをつけたと思いますが。パパさんも人が悪い。(笑)

    確かに、武士の生き方って「誇りに生き」「恥に死ぬ」ということで、それはある意味でひとつのスジの通った生き方ですよね。そしてこれは現在に至るまで、日本人の典型的な信条にもなって受け継がれているように思います。

    でもよく考えてみるとクリスチャンが「誇りに生きる」とき、それは「神さまの誇り」でなくて「自分の誇り」だったり、「恥をかかされた」と言って怒るとき、それは「神さまが恥を受けた」からではなくて「自分が恥を受けた」から怒る、そんな風に、ノンクリスチャンと同じレベルでの生き方になっている場合が多々あります。何を隠そう、この私自身がそうなのです。

    明治時代に、日本にプロテスタントが入ってきたとき、それを受け入れた人の多くは旧武士で、キリスト教を、武士道に代わる新しい生き方の規範として受け止めたという指摘がよくされますが、「新しい武士道」であるキリスト教の主体が「神さま」でなく「私」であり続けたところに、日本でキリスト教が根づかなかった理由があるのかも知れません。

    今日のブログを読んで、そんなことを思わされました。

    それでは、良い聖日をお過ごしください。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    私も一度エホバの証人の集会に行ったことがあります。
    (アルバイトで勤めていた工場には多くのエホバの証人の方がおられ、そのうちの一人に連れられて行きました。私が行きたいと言うと、その方は嫌がっておられましたが、無理やり連れて行ってもらいました。)

    集会後、多くのエホバの証人の方に「エホバの証人にしか見えない。」と言われ、ショックを受けました。(笑)

    コメントの後半部分で、新たな気づきが与えられました。
    そうですね。神の誇りに生き、神が恥を受けたことに怒るなら、それは聖書的武士道と言えるかもしれませんね。

    ただし仰る通り、罪人である人間にそのような高尚な生き方が果して可能だろうかという疑問は残りますが。

    やはり人は謙遜に、あるがままを生きるとき、神の栄光を表すことが出来るのではないかと思ったりします。

    では新たな一週間を、元気でお過ごしください。

  3. 岡田 より:

    ヨナ書は いったい、どこにあるんやと、目次を見なければならないほど遠ざかっておりました

    ヨナは きっとニネベの ひとたちが 嫌いだったのでしょうね こいつら罰当たったらええのに
    そう 考えていたと思います

    神さまは 右も左もわきまえない 12万の人々に 罰 当てたくないと おもわれ 憐れみの意志を 示されたので

    ヨナは ぼくの 御心と 神さまの御心は 真逆やないか どういうこっちゃねんと、はなから スネまくっていますね

    クリスチャンが 自分の御心に よって 生きるとき 本当に スタミナをロスし 疲れ 苛立ちを感じます ヨナは身をもってその事を体験されたと
    思います。

    主の 御心が わたしの うちに なるようにと 祈ります 自身の願望と 主の 御心が 喧嘩に ならないようにと 祈ります

    日本の クリスチャンも 中国に 神さまの憐れみ があり この国が 救われ祝福 される ことを 心からの 願いとしたいものです。

  4. arinopapa より:

    岡田さん、こんばんは。

    ヨナ書なんか、読んなことない(笑)