もし自分の人生に奇跡を起こしたいなら‥‥‥‥

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①人間関係の秘訣は受容すること

ある時、品のよい婦人と相談とも言えないような世間話をしておりました。
そのお話の流れで、ありのパパは常のごとく「まずご主人をありのまま受容なさることです。そうしたら、ご主人もあなたを受容するようになります」と申し上げたことがありました。
ありのパパは念仏のように「ありのままを受け入れよ」と誰彼かまわず言ってのけてしまうところがあります。
ありのパパがそう申し上げた途端、その婦人の顔色が変わりました。
「失敗したかな」と一瞬考えました。
しかしそのご婦人は身を乗り出し、そして口をとがらして「私が主人を受容したら、本当に主人が私を受容してくれるって保証できる?」と言われたのです。

②返してもらうことを期待しないで与えることをギブという

みなさんなら、どうお答えになられますか?
ありのパパ:「人間関係はギブ アンド テイクです。まず与えなさい。そうしたらもらうことが出来ます」
婦人:「主人もそうしてくれるとわかっていれば、私も受容する。だけどそうならなかったら、私だけ受容して損だから嫌だ」
ありのパパ:「相手がくれることを期待して、あげることをギブとは言いません。それは貸しているだけです。返してもらうのを期待しているのですから。返してもらうことを期待せずに、あげるのが本当のギブです。」
婦人:「わかった。じゃ、やってみる」

③受容すると奇蹟が起きる

このあと、この婦人は神の奇蹟を見ることになります。
その時は、ただのよくあるカウンセリング的会話であると思っていました。
しかしこの婦人は忠実にご主人を受容し続けました。
その頃、ご主人は精神的に安定せず、なんでもないことで奥様に突っかかってきたり、怒ってみたりで、奥様は自覚的に受容するという覚悟がないと、到底ご主人とうまくやっていくことが出来なかったようです。

④受容すると後悔しないですむ

そうして何ヶ月かが過ぎたころ、衝撃的な知らせを受けることになります。
それはご主人がガンに冒されているという事実でした。
この時はじめてご主人の精神的な不安定さがご病気から来ていたのではないかということを知らされたのでした。
そしてさらに何ヶ月かが過ぎ、ご主人はとうとう亡くなられました。
しかしご葬儀のときの奥様の「精一杯看病し、受容できたので、悔いはありません。」との晴々(はればれ)としたお顔を忘れることが出来ません。

この話はもう何年も前のことなのですが、ありのパパはこのことを思い出すたびに、神のご計画のくすしいこと、人が神の導きに従うとき奇蹟は起きることなどを思い、神様に栄光を帰すのです。

⑤あなたもやってご覧になってみては?

ご家族の中で、黙って話を聞くという時間を定期的にもってみてはいかがでしょうか。
お母さんは、お子さんに話しかけることは多くても、話を黙って聞くということは案外少ないのではないでしょうか。
少なくとも一週間に一度はお子さんの話に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
その時、決してアドバイスしようなどと考えないことです。

同様に、ご主人は奥様の話を黙って聴く時間をもってみてはいかがでしょうか。
そうしたら、必ずご家庭に神の恵みが広がってまいります。

なぜなら、イエス様もそのように私たちの話を聞いてくださったからです。
福音書を読むとき、イエス様の人々に対する眼差しのやさしさに胸が熱くなることがあります。
それはやはり、イエス様が黙って人の話を聴かれたからではないかと思うのです。
もちろん、このことは聖書には書かれていません。当たり前です。
聖書は「話された言葉」を記している書物だからです(笑)。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。おはようございます。
    今、朝の3時なので、まだ寝ていたいのですが、今日は遠くに下宿している大学生の息子のところに妻と二人で行くことになっているので、いつもより早く起きてこれを書いています。

    最近は、朝起きてパパさんのブログを読むのが日課になりました。いつも色々と教わることが多く、大変に楽しみです。

    受容することの意味と大切さを教えられた気がします。
    以前のブログでも、受容の勧めがありましたが、なかなか実施することは(特に妻には)難しいな、と思っていました。

    でも、今日のブログのお証しを読んで、私も妻に対してやってみようという気になりました。いつもお互いに自己主張をし合って、夫婦喧嘩をしてしまう愚かな夫婦なので、そこに神さまの奇蹟がどのような形で現れるのか期待してみようと思います。

    パパさんのコメントの最後を読んで、ヨハネ8章の姦淫の女の物語を思い出しました。

    イエスさまがオリブ山で朝祈っているときに連れてこられた姦淫の現場で押さえられた女の物語です。

    ここで、人々がイエスさまを取り囲んだとき、イエスさまは最初黙って地面に何かを書いておられた。でも人々が問い続けてやめなかったので、身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げよ」とおっしゃった。

    その一言で、人々はハッとさせられ、一人去り、二人去って、その場には女とイエス様だけが残された。

    この物語を読むと、イエスさまは女に「なぜ、あなたはそんなことをしたのか」とか「どう反省しているのか」みたいなことは一切おっしゃっていませんね。

    女に語ったのは、罪の赦しの言葉だけです。

    パパさんの受容の話を聞いて、この物語を思い起こしました。

    イエスさまは偉大なカウンセラーでもあったのですね。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんにちは。

    今日は初夏のような暑さですが、奥様ともどもお体にお気をつけ下さい。

    自己主張し合うということが、受容し合う前提ではないでしょうか。
    そうでなければ、受容ではなく抑圧(ただの我慢)になってしまうような気がします。

    「姦淫の女」の件、教えていただきありがとうございます。
    ペンテコステ派はイエス様は地面にまず十戒を書き、次にそこにいた人々が犯した罪を書いていったと理解するのです!
    (この解釈は最初チョー・ヨンギ先生がなされたのですが、あっと言う間にペンテコステ派全体に広がったように思います。)
    これではイエスの沈黙という発想は出てきようがありません。
    私もそれに汚染されてしまい、そのような発想が出てきませんでした。

    言ったことよりも、言わなかったことに焦点を当てなければならないことが多いにもかかわらず、現代に生きる私たちは、どうしても人が何を言ったかというところばかりに関心が言ってしまい、その人が何を言わなかったかということを見落としてしまいます。

    また一つ文章が書けそうです。(笑)