人は救われていることを知ることが可能です!

ありのパパの入信直後の悩みは救いの確信がないということでした。
自分が救われているかどうかがはっきりしませんでした。
それで神様に確信が与えられるように執拗に願い求めました。
今日は、ありのパパに救いの確信が与えられたときの一部始終をお話しします。

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初代教会の人々は救いの確信を問題にしていない?

救いの確信を求めつつも、ありのパパには一つの疑問がありました。
それは初代教会の人々が救いの確信について頓着(とんちゃく)していないということでした。
イエスを信じる信仰に入ると、すぐに自分を救われたものとして勘定し、歩み始めているのです。
なぜ自分にとって問題となることが、初代教会の人たちにとっては問題とならないのかが疑問でした。

③救いの確信が与えられたときの様子

そうこうしているうちに何ヶ月かが過ぎ、ついに救いの確信が与えられる日がやってきました。
その日も救いの確信を求めて下宿の三畳の部屋で祈っていました。
ひとしきり祈って、内心「あぁ、今日も与えられなかったなぁ」と思っていますと、急に神からの語りかけがありました。
しかしその時は神からのものという認識はなく、自分自身の思索という認識でした。
それはどのようなものかと申しますと、まず御言葉が思い浮かびました。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれももっていません。」(ヨハネ15:13)
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」(Ⅰヨハネ3:16)

そしてこの御言葉を黙想しているうちに「そうか!救いの確信にこだわって、座り込んでしまうのではなく、イエスが私を愛したように、私も人を愛すること。信仰生活とは愛の原理で生きていくことだ。これこそが信仰生活の真骨頂なのだ」という理解がやってきました。
その時「わかった!」と思わず叫んでしまいました。

④救いの確信は喜びを伴う

そのとき救いの確信が潮のようにありのパパの下宿の三畳の部屋に押し寄せてきたのでした。
狭い三畳の部屋で、椅子に座ったまま手を鳥のようにばたつかせていました。
息が出来ないほどの喜びの感情に包まれながらも、心のどこかでは平静を保ち、教えられたことの要点を再確認している自分が不思議に感じました。
神は宗教経験(感情)とともに、真理をもお与え下さったと思いました。
宗教経験だけなら熱狂に、真理だけなら冷たい正統主義に陥ってしまうかもしれませんが、両方与えられてバランスをとられる神はほむべきかな!

⑤救いの確信はなくならない

これが救いの確信が与えられた一部始終です。
この時から34年が経ちましたが、憐れみの故に自分が救われていることを疑うことがなかったことを感謝しています。
しかしこのとき教えられたことの実践は、なお未(いま)だしの状態です。
振り返るならば、この34年間は、与えられた御言葉を実現するための年月だったと言えます。
神の御前に悔い改めがあるのみです。

しかしあの救いの確信が与えられて以来、
①聖書の御言葉から、今日というこの日を生きている、この私に、神様が語ってくださる。
②その語られた御言葉に従順するとき、
③問題は解決の方向に向かい、感情は後からついて来る。
この神様の方程式は変わることがないと堅く信じているのです。

◎今日の文章が、救いの確信がなくて、不安に思ったり、悩んでおられる方のなんらかの助けになれば幸いです。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。
    昨日は、恵まれた聖日を過ごされたことと思います。
    今週も、パパさんや、全ての人の上に、主イエスの祝福と導きが豊かにありますように心から祈ります。

    あと、ひとつ謝らなくてはいけないことがあります。
    パパさんの過去の「ありのまま日記」を何気なく読んでいて、「新共同訳」のところで、パパさんが私に、私のコメントの転載許可を求めたようですが、その連絡に気づかず無視してしまったようですね。そのため、パパさんに、私からの転載許可がおりなかったと思わせてしまったようです。

    毎日大量のスパムメールが私のメールボックスに届くので、ざっと見て、スパムメールを削除しているのですが、どうもパパさんのメールに気づかず、スパムメールと一緒に削除してしまったようです。

    別に無視したわけでも、許可をしなかったわけでもないのです。私の単純ミスでした。まことに申し訳ありませんでした。

    今回はパパさんのお証しを読ませていただきました。

    パパさんは、信仰ということに対して実に純粋な方ですね。
    私は、信仰に入ったとき、そして今に至るまで、パパさんのように純粋に信仰を突き詰めて考えたり、求めたりしませんでした。

    パパさんのお証しを読んで、福音派の方の信仰への思いの一端をかいま見せてもらった思いがします。そして自分の入信のときと比べてみて、リベラル派と福音派のの信仰のあり方の違いを理解するきっかけも与えていただきました。

    よく、リベラル派は「救いの確信が明確でない」と言われます。確かに、自分のことを考えてみると、パパさんのような体験が明確でありません。

    このことは、私にとって突き詰めて考えると、私が神学校に行きながらも結局は牧師にならなかった(なれなかった)原因ともつながっていることを気づかされました。

    救いの確信というと、私などは「それは個人的な思い込みだろう」くらいに軽く考えていたような気がしますが、パパさんとの交流を通して、自分の持つ「実存論的信仰」の方こそ、個人的な思い込みに堕する危険性があることにも気づかされている今日この頃です。

    私にとっての今後の課題は、実存論的信仰をいかにして単なる思い込みで終わらせないようにするか、ということと、そのためには救いの確信ということが重要な要素になるのだということを教えられました。

    ありがとうございます。
    今後も、色々と教えてください。

    ヒラぴゃんより。

  2. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    パパさんのお証しの中に、第一ヨハネ3:16の聖句が出てきますね。
    実は、私もこの聖句が大好きなのです。
    ここにキリスト教の福音の真髄が書かれているようにも思っています。
    ですから、自分のHPの冒頭にも、この聖句を掲げています。
    私が暗唱しているのは、口語訳によるものです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

    世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。

    子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。

    (ヨハネの第一の手紙第3章16~18節)

    • arinopapa より:

      ヒラぴゃんさん、こんにちは。

      ○新共同訳のこと、了解しました。
      私もgmailを使っているのですが、誤って迷惑メールに分類されていることが何回かありました。
      それで結局使わなくなりました。

      ○聖書の御言葉が、実存的意義に変化することを、メソジスト系統の教会では、「御言葉が与えられた。」と表現します。
      しかしお証などを聞いていると、もともとの意味から離れたところで、その御言葉を受け取っていると思われることが何回もありました。
      ですから、その意味では確かに「個人的思い込みのレベル」ではあるのです。
      問題の核心は、確信にではなく、御言葉そのものにあるとしなければならないと考えます。
      (確信が与えられることを全方位で許容してしまったことが、現在の聖霊第三の波の問題の温床になったのではないかと思います。確信というルートを通せば何でもありということになりますから。)

      ○ヒラぴゃんさんが説教の中でイエス様との出会いを経験し、熱心な教会生活を送られるようになる経過は、福音派における回心経験そのものではないにしても、共通する部分を多く共有していると思います。
      職業としての牧師にならなかったことを書いておられますが、メソジストの歴史を見ると平信徒伝道者によって伝道の業が進められたのであり、初代教会を見ても平信徒と牧師という関係では捕らえられておりません。
      人生90年と言われる時代ですから、これから何が起きるか(神様によって起こされるか)見物であると思います。
      私たちに出来ることは、神の主権に口を出すことではなく、お声が掛かった時に従えるように自らを整えることだけですね。

      ○ヒラぴゃんさんを通して、福音派信仰がただの宗教経験のデパートにとどまらないためにはどうしたら良いのかを教えていただいています。
      こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします。

      追伸:「日記」のほうも読んでいただいているようなら、よろしければ日記の方にもコメントを書いてくださいませ。

  3. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    コメントありがとうございます。

    >聖書の御言葉が、実存的意義に変化することを、メソジスト系統の教会では、「御言葉が与えられた。」と表現します。
    しかしお証などを聞いていると、もともとの意味から離れたところで、その御言葉を受け取っていると思われることが何回もありました。
    ですから、その意味では確かに「個人的思い込みのレベル」ではあるのです。
    問題の核心は、確信にではなく、御言葉そのものにあるとしなければならないと考えます。

    言われてみると、確かに「御言葉が与えられた」という言い方をしますね。
    祈りながら、何かを決断するときに、その決断を与えてくれる聖句を見出して、「御言葉が与えられた」として決断する、これは現在の福音派の教会の中でも証しの中でよく聞く言葉です。
    しかし、それが自分の無意識下の「こうなればいい」という思いを聖書的に保証するための方便となる危険性もあるのだということを、改めて気づかされました。

    自分の「思い」を「聖句」によって正当化するという間違いを犯さないようにするためには、具体的にはどのようにしたら良いのか、難しいけれど追い求めなければならない課題だと思います。

  4. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    ペンテコステ派の神学校にいたときには、そのような女子神学生が多かったです。
    いわく「みこころを示された。」とか「導きをいただいた。」とかです。
    しかしその多くが、妄想であったように思います。
    (なぜそれが妄想だと思ったのかは、機会があれば文章にしてアップしたいと思います。)
    カウンセリングの授業で、統合失調症に特有な妄想と宗教者の幻の体験のちがいは何であるかを学んだとき、それはショックでした。

  5. コル より:

    こんばんは。ありのパパさん。いつも読ませていただき感謝です。ありのパパさんとリベラル派の兄弟との対話を拝見して、心温まるものを感じました。いいなあと思ってます。
     そして、ヒラぴゃんさんの証を読んで安心しました。この方の場合は聖書の「クリスマスの三博士の礼拝」の記事、牧師のメッセージを通して、神様が語りかけたんだな、(私たちは聖霊様がレーマを与えたと表現します)、リベラル派も福音派も聖霊派もない、皆、三位一体の愛のお方に、個人的に語りかけられ、救われたんだなと思い何か安心しました。
    ありのパパさんが最後にまとめられている通りだと思いました。ありがとうございました。感想です。 

  6. arinopapa より:

    コルさん、こんばんは。
    コメントをありがとうございます。

    私もリベラル派の兄弟のお証をお伺いして、私たちと共通点があることに気づかされました。
    破壊的にならずに、建徳的であることを心がけていくとき、この終わりの時代にあって、神様が私たちに教えてくださることがあるのではないかと思っています。

    またよろしければコルさんの入信のお証もお伺いすることが出来れば幸いです。

  7. コル より:

    ありのパパさん、私に入信のいきさつを尋ねてくださって感謝です。
    私はごく平均的な日本人的生活を送っていました。
    朝仏壇の前で手を合わせ、クリスマスケーキを食べ、神社もときどきお参りにいき・・・。
     当時、私は大学生でした。
    英語を学びに教会に行っていました。
    英語だけが目的だったのですが、聖書からときどきメッセージが語られ聞くことがありました。
    話し手はチャペルタイムの牧師だったり、お茶の時間の学生のクリスチャンだったり。
    私は神の存在も、処女降誕も、復活も何も信じてはいなかったのですが、ある日のことでした。
     復活を信じなかったトマスに主イエスが言った「信じないものにならないで信じる者になりなさい」の言葉がなぜか私の心に響いてきたのです。
    まるで主イエスが信じていない私に語りかけているかのように感じたのです。
    「見よ。私は戸の外に立ってたたく、誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私は彼のところに入って彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする」と黙示3章20節にありますが、まさに主イエス様が心の戸をたたいていたように思ったのです。
    それで、心を開いて「主イエス様信じます。心の中に来てください」と祈りました。
    以来30年近くたちました。
    そのときからずっと、復活も、処女降誕も皆、信じています。
    信仰を与えられて本当に良かったと思っています。
    書かせていただき感謝します。 

  8. arinopapa より:

    コルさん、お証をありがとうございました。
    「見よ。我は立ちて、なれの戸をば叩く。」という聖歌を思い出しました。
    ちょうど30年前、伝道会でこの歌をよく歌ったものでした。
    確かにそれ以来、神の御子であるイエス・キリストがコルさんの心の内にお住みくださっているのですね。
    本当に感謝です。
    神様に栄光を帰します。

  9. 岡田 より:

    こんにちは ありのぱぱさん

    ひらぴゃんさまの コメント 拝読させて 頂きました たとえ 立ち位置が 違っても ぼくは、このような兄弟を 心から 尊敬いたします

    たいへん 紳士的で 謙虚な かたです

    ありパパさんは多分反対意見だろうと思いますが

    神さまは、このような かたがたを 救いに みちびくためには 聖書の 非神話化という 方法も あえて容認 されて おられるのではないだろうか そんな 印象を もちました

    もちろん、ぼくとしてはチャールトンヘストンが手をあげたら 海に 道ができて 助かった 追いかけてきた ユルブリンナーは 溺れて死んだ

    そのまんま 信じたら楽で ええやん と思いますが しかし今後は

    このような兄弟の信仰のありかたも、尊重してまいります。

  10. 岡田 より:

    こんにちは ありのぱぱさん

    ひらぴゃんさまの コメント 拝読させて 頂きました 。
    たとえ 立ち位置が 違っても ぼくは、このような兄弟を 心から 尊敬いたします。

    たいへん 紳士的で 謙虚な かたです。

    ありパパさんは多分反対意見だろうと思いますが、

    神さまは、このような かたがたを 救いに みちびくためには 聖書の 非神話化という 方法も あえて容認 されて おられるのではないだろうか そんな 印象を もちました。

    もちろん、ぼくとしては「チャールトンヘストンが手をあげたら 海に 道ができて 助かった。 追いかけてきた ユルブリンナーは 溺れて死んだ」

    そのまんま 信じたら楽で ええやん と思いますが しかし今後はこのような兄弟の信仰のありかたも、尊重してまいります。

  11. arinopapa より:

    岡田さん、こんばんは。

    コメントありがとうございます。
    自分の信仰の立場をしっかり保つことと、ちがう立場の信仰理解に共感することは矛盾することではありません。
    むしろ、本当に自分がよって立つ信仰理解を確信しているなら、なんの躊躇もなく共感を示すことが出来ると思っています。
    信じているといいながら、本当は信じきれてないとき、相手を攻撃するのではないでしょうか。