精神病院での出来事

ありのパパは一カ月に一度精神病院を訪問しています。
今日はその時の一こまをご紹介しようと思います。

面会は談話室で行われるのですが、そこは衝立(ついたて)で仕切られただけの、隣の声が丸聞こえの場所です。
そのような場所で行われる面会は、人生模様といいますか、様々なことを感じさせられる場所ではあります。
たとえば………、といつもなら書き続けることが出来るのですが、今日は止めておきましょう。

ただ一つ言えることは、福音の恵みがここにまで一日も早く及びますようにということです。
もちろん何十年も前のように、入院患者の人権が著しく侵害されるということは、もうないと申し上げることが出来るのですが(あったとしても偶発的出来事であると言えるほどに数は少ない)、それでも社会復帰の問題、いかにして病気と共存しながら、生き生きとした人生を歩んでいくかを考えるとき、問題の解決は今からのスタートであると言わなければなりません。

さて、話を元に戻しますが、面会をしていると衝立を間にして背中合わせに座っている方々が、神様の話をしているのです。
ありのパパは、根が子供ですので一旦気になると、気になって気になって仕方ありません。
それでとうとう、自分自身が面会中であるにもかかわらず、無言のまま上半身を思いっきりねじって、背中合わせに座っている方の顔を覗き込んだのです!
やっぱりというか、カトリックの神父か聖公会の牧師のようでした。
顔を見ると、困ったような顔をしておられました。(そりゃ、そうでしょうとも。)
私は帰りにお茶でも一緒に飲もうとお誘いしようと思ったのですが、気がついたときにはもうおられませんでした。

今日は精神病院のことを書こうと決めて書き始めたのですが、途中で「これは書いてはいけない」「あれも書いてはいけない」と思うことばかりで、どうにも書くことがありません。

それで最後に二つ。

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心理テストのこと

精神科医がどういうわけか私にもカウンセリングのテストをしてくれたことがありました。(無料で)
ご存じの方もおられると思いますが、一本の木の絵を描くというものです。
その描いた絵をもとに、精神科医が心理的問題を指摘してくれるのです。
この種のテストが大好きなありのパパはうきうきと画用紙一杯の大きな根がはった木を描きました。
もうこれだけでわかる方にはわかってしまいますね(笑)。
講評の内容はあえて書きませんが、その時のテストの結果に大きな励ましをいただきました。
皆さんも一度、カウンセリングのテストを受けてみるといいですよ。

精神病院とAA

二つ目は精神病院では精神病の治療とともにアルコールなどの依存症治療が大きな部分を占めています。
ありのパパがお伺いしている病院でもAA(アルコール依存症者の自助グループ)の集まりが行われていました。
そこでのつながりによって、ありのパパはAAを知ることが出来ました。
AAでは平安の祈りと呼ばれる祈りをもってミーティングを閉じます。
「神様、変えることの出来ないものを受け入れる忍耐を、変えることの出来るものを変えていく勇気を、そしてそれらを識別する洞察力をお与え下さい」
この祈りをもって毎週のミーティングを閉じ、実生活に戻っていくのです。
よくもこんなにキリスト教色の強い運動が一般の病院に受け入れられたものだと思います。
その理由は医者でも治せなかったアルコール依存症の治療に12ステッププログラムがめざましい効果があったので、強いキリスト教色にもかかわらず受け入れられているのです。
世の中は、論より証拠なのです。効果があれば受け入れられるのです。
冒頭で、一刻も早く福音の恵みが精神病院にも及びますようにと書きましたが、案外もうすでに神様の恵みは精神病院のうちに、この祈りを唱える人々を通して与えられているのかもしれません。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。おはようございます。
    パパさんは、教会以外にも(もちろん、教会の関係でしょうが)、色々な活動をされているのですね。頭が下がります。
    パパさんの、それらの活動が主に祝福され、宣教に用いられますように祈ります。

    パパさんの話の中に出てくる祈りは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの有名な祈りですね。ニーバーは、どちらかというと社会福音的なリベラル神学者ですが、このような敬虔な祈りも残しています。リベラルも捨てたものじゃないでしょう(笑)

    インターネットにこの祈りの解説がありましたので下記に引用しますね。これを読むと、この祈りが断酒会のモットーになったのかが説明されています。

    「アメリカの神学者、倫理学者ラインホールド・ニーバー(1892-1971)がマサチューセッツ州西部の山村の小さな教会で1943年の夏に説教したときの祈り。礼拝の後、ハワード・チャンドラー・ロビンズという人がこの祈りの原稿をもらった。彼は、祈りを集めた小冊子を編集発行していた。ロビンズは翌年、彼が編集した祈りの本の中に加えて出版した。その時は、ニーバーの名は付されてはいなかった。
    第二次世界大戦の中、この祈りが書かれたカードが兵士たちに配られた。戦後になると、今度はアルコール依存症患者の断酒会のメンバーの目に留まり、その断酒会のモットーとして採用された。ニーバー自身がこの祈りを書物に著したのは1951年のことである。このころには、この祈りはすでに広く知れ渡っていた。そして、1961年、グリーティング・カードを出版しているホールマーク・カード社がこの祈りの版権をニーバーから取得している。この祈りの作者は、18世紀の神学者フリードリッヒ・クリストーフ・エーティンガーだという説もあれば、14世紀の一兵士の祈りであったという説、古代アラビアから伝わってきた祈りだという説もあった。しかし現在では、これらの説は誤りで、正しくはニーバーの作であるとされている。」

  2. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    昨日、パパさんから要望がありました「非神話化」について簡単に説明します。
    「非神話化」という言葉は、聖書を単なる神話とみなすという誤解を受けて、福音派では評判が悪いのですが、私の説明で多少なりとも前向きに理解していただければ幸いです。

    非神話化という概念は、ドイツの新約学者であり組織神学者であるルドルフ・ブルトマンによって1941年に提唱された聖書解釈の方法です。

    ブルトマンは新約学者なので、話は新約聖書を例にとって進めますが、別に旧約聖書においても適用できます。

    ブルトマンの主張の背後には、次のような前提があります。

    ① 新約聖書においては、世界は「天界」「地上」「下界」という三つの階層からなっている。この三つの階層は、現代人が考えるような抽象的な概念ではなくて、実際にそれらが宇宙論的に存在する、という意味で存在する。このような世界観が前提となって新約聖書は書かれている。

    ② 新約聖書のメッセージの中心である、イエス・キリストによる救いの出来事も、このような神話的な世界像の枠組みの中で語られており、そこでは、「宣教の使信(ケリュグマ)」と「古代の世界観による神話」が分かち難く結びついている。

    ③ この「天界」「地上」「下界」という世界像の中では、天的な存在と、悪霊的な存在が常に行き来していて、地上に直接的な影響(例えば、様々な病は悪霊が人間にとりついて起きるとか)を及ぼしている。

    ④ しかし、現代人である我々(ブルトマンは現代人は皆、自分と同じ考えをもっているという前提で議論を進めています)は、このような古代の世界観をそのまま受け入れることはできないし、また受け入れる必要もない。なぜなら、聖書の中で重要なのは、宣教の使信(ケリュグマ)なのであって、古代の世界観ではないからである。

    ⑤ 古代の世界観に基づく神話的な表象と、ケリュグマを区別しないと、現代人は聖書の記述につまづいてしまう(例えば、「病気が悪霊の仕業だって? 何を馬鹿馬鹿しいこと言っているんだよ。だから聖書なんて信じられないんだよ」みたいな感じ)。

    ⑥ このように、現代人は古代の世界観を受け入れることはできないし、また仮に、その古代の世界観を無理に受け入れる(例えば、「病気が悪霊の仕業なんてとても信じられないけれど、牧師先生は、聖書に書いてあるんだからそのまま素直に信じなさい、と言っているし、それを信じなければクリスチャンじゃないんだから、信じられないけど信じるぞ」みたいな感じ)とすると、それは知性を犠牲にしなければならない。そのようなことは、「知的なレベルにおける行為義認」となってしまう。プロテスタントの基本的信条は「信仰義認」であって、「行為義認」は否定されている。我々は、行為義認というと、「行動」のレベルでしか考えないが、行為義認は「知的」なレベルでも存在する。このように、我々が古代の世界観を無理やりに受け入れるのだとすることは、「できない」ばかりでなく、「する必要がない」、もっと強く言えば「してはいけない」ということになります。ブルトマンはルター派の神学者ですから、ルターの信仰義認論を、このように知的なレベルでも徹底するのです。

    ⑦ それでは、我々は聖書をどのように読み、理解すべきであろうか、という問題が残る。19世紀の自由主義神学者は、この古代世界観に基づく神話を排除してしまった。しかし、聖書の記述の中では「神話」と「ケリュグマ」は分かち難く結びついているので、単純に神話を排除してしまうと、肝心のケリュグマも一緒に排除してしまう結果となる。その結果、自由主義神学においては聖書は単なる倫理的な道徳の本になり、イエス・キリストは単なる模範的な人間にすぎないことになってしまった。

    ⑧ このような自由主義神学的な方法では、我々は聖書を正しく受け取ることができない。そのためにはどうしたら良いか? 聖書の中に書かれている古代的世界観による神話を排除するのではなく「解釈」すれば良いのである。つまり、神話的表現の中に隠されているケリュグマを、「解釈」によって取り出すこと。これが「非神話化」という作業である。

    ⑨ それでは、どのように聖書を解釈したら、聖書の記述の中からケリュグマを取り出すことができるのだろうか? それは「実存論的解釈」によれば良い。

    ⑩ 聖書は古代の世界観によって記述・描写されている。それはいわば「宇宙論的」な記述・描写である。しかし、実存論的解釈とは、そのような「客観的」なものではなく、聖書を読む「私」の「実存」に関わる問題として聖書を読み解釈することなのである。

    ⑪ 新約聖書のケリュグマである、「キリストの出来事」は、史的イエスが、「この場・この時」に生きる我々にとって、どのような意味でのっぴきならない結びつきをもっているのかという、その「有意義性」が明らかにされることによって実論論的に解釈されなければならない。いわば、「史的イエス」+「その実存論的有意義性」=「実存史的なキリストの出来事」という公式で表わされる。

    ⑫ 歴史には、それが目に見える形で起きた歴史「史実(ヒストリエ)」と、私にとっての意味を伴った歴史「実存史(ゲシッヒテ)」がある。聖書は歴史的に正しいと言うとき、それは「史実」としての正しさよりも「実存史」という意味で歴史的に正しい、と理解すべきものである。

    ⑬ このような「非神話化」は、実は福音書の中にもその萌芽が見られる。ヨハネ福音書11章でラザロが死んだときの主イエスとマルタとの対話がそれである。マルタは、最初、「終わりの日によみがえることは存じています」という。これは正しい信仰告白と言える。しかし、主イエスはそのようなマルタに対して、「わたしはよみがえりであり命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて私を信じるものは、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と、鋭く問いかける。それに対してマルタは、「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子であると信じています」と告白する。このマルタの実存をかけた信仰告白により、マルタにとって、復活とは、終わりの時という「あの日、あの場」ではなく「この日、この場」における「イエス・キリストの現実」になるのである。

    上記の①~⑬で、偉そうに書きましたが、これは私が偉そうに言っているのではなく、単にブルトマンの主張を列挙しただけですので、気を悪くしないでくださいね。

    「非神話化」とは、こんな感じです。これを受け入れろとは言いませんが、内容をご理解いただければ嬉しいです。

  3. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、こんにちは。

    非神話化の説明の中で、「知的なレベルにおける行為義認」という言葉が用いられていますが、これは非神話化を説明する際の専門用語(テクニカルターム)であって、私に他意があるわけではありません。
    ここを読んだ、福音派の方々が「じゃあ何か? 聖書をそのまま信じる我々は、古代の世界観をうのみにする知的レベルが低い人間か?」みたいに誤解して怒ると困るので、そのような意味で言っているのではないことを一応断っておきます。

     

  4. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんにちは。

    三番目の書き込みですが、心配いりません。
    言われて初めて、そういうことかと気づいたぐらいですから。
    それまでは「文字通り信じられる俺達って幸せだな~。」と思っていたのです。

    しかし、やっぱりここでも神話の部分とメッセージの部分を分けるのは人間であり、そうすることは人間を神より上位に置くことになり、それは破綻している論理構造ではないかという疑問をぬぐうことが出来ません。
    まだ一読しただけですので、おいおい………。

    精神病院の訪問は、(組織された)教会の働きではありません。
    私が個人的にやっていることです。

  5. arinopapa より:

    すいません。追伸です。
    非神話化のあらましは、教えていただきました。
    この文章を読んだ多くの福音派信者が感じると思うのですが、

    ①ではなぜ非神話化する必要があるのか?
    福音派信徒にとってはちっとも非神話化する必要を感じないのです。
    聖書を文字通り信じることによる不都合というものがないのです
    すべてのことは説明可能な事項ばかりです。

    ②古代と現代を対立的に捕らえる手法そのものに、論理的矛盾が内包されていないか?
    時代の移り変わりに応じて、聖書理解が変わってしまうことにならないか。
    聖書が「様々な教えの風に振り回されることなく」と教えているにもかかわらず、これでは常に主張や意見が変遷してしまうことにならないか。

    アニミズム的世界観を前提として、その中で一神教としてのキリストの福音を説いているのが聖書の信仰であるのに、そのアニミズム的世界観(古代の世界観)に蓋をしてきれいごとのキリスト教世界観を作り上げたところに、キリスト教の弱体化の原因があるのではないか。

    ③単純・素朴の信仰を厳密な思考によって支えることが神学の目的であるとするなら、この視点から見て、信仰を支えることになっているだろうか。
    かえって信仰を弱体化させてしまっているのではないか。そして現実にそうなっているのではないでしょうか。

    非神話化という大きなテーマの解説をお願いしたので、これを書こうとするなら私なら時間がたくさん必要だと思ったのですが、やはり肉になり血になっているからこそ素早く文章化できるのですね。
    感服いたしました。
    昔の上司に、「考えれば考えるほど、文章はわかりやすくなる。あなたの文章は考えていないから、分かりにくい。」と言われたことがあり、その時は反発したのですが、言われた通り何回も考えていると最終的には文章が分かりやすくなりました。
    そんなことをヒラぴゃんさんの文章を読みながら、思い出しました。
    (よく分かるといいながら、こんなコメントを返しやがってなどと仰いませんように。(笑))
    では。

  6. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、こんにちは。
    今、会社から帰ってきました。
    やったー!ゴールデンウィークだー!

    というところで、本題に。

    精神病院の訪問の件、了解しました。
    立派ですねえ。マジで敬服します。
    私にはなかなかそういうことはできません。
    信仰が血肉化しているパパさんだからこそ、できることかも知れません。
    私なんか、屁理屈ばかりこねていて、実践が全然伴いませんもの。
    こういうところで、クリスチャンとしての姿が現れるのだなあと思います。

    さて、非神話化の件で、ご質問にお答えいたします。

    >①ではなぜ非神話化する必要があるのか?
    福音派信徒にとってはちっとも非神話化する必要を感じないのです。
    聖書を文字通り信じることによる不都合というものがないのです
    すべてのことは説明可能な事項ばかりです。(以上が引用)

    回答・・・ブルトマンには、「現代人は、超自然的な事柄を事実として受け止めることはできないのだ」という確固とした前提があるのです。福音派の方々のように聖書の記述をそのまま素直に受け止めることができる人がいるということは前提から除外されています。ブルトマンのこの前提については、現在ではリベラル派からも批判が出ています。いわく、それはブルトマンの勝手な思い込みに過ぎない、という批判です。私も、その批判はもっともだと思います。ですから、3番目の書き込みで言い訳をしたわけで・・・。

    >②古代と現代を対立的に捕らえる手法そのものに、論理的矛盾が内包されていないか?
    時代の移り変わりに応じて、聖書理解が変わってしまうことにならないか。
    聖書が「様々な教えの風に振り回されることなく」と教えているにもかかわらず、これでは常に主張や意見が変遷してしまうことにならないか。(以上が引用)

    回答・・・はい。パパさんの言われるとおりです。私が東神大で非神話化を教わった時、教授は言いました。「非神話化とは新たな神話化のことである」と。つまり、現在の私たちが聖書を非神話化して聖書を解釈したとして、その私たちの解釈は、今から1000年後の人たちが聞くと、それは20世紀の世界観によるものだ。したがって我々(1000年後の人のこと)は、それを再度「非神話化」して解釈しなければならない。ということになります。パパさんの御指摘は東京神学大学の新約学の教授と同じ学的レベルの指摘であります。

    >③単純・素朴の信仰を厳密な思考によって支えることが神学の目的であるとするなら、この視点から見て、信仰を支えることになっているだろうか。
    かえって信仰を弱体化させてしまっているのではないか。そして現実にそうなっているのではないでしょうか。(以上が引用)

    回答・・・私は神学は教会に仕えるものだと思っています。このスタンスは東神大のスタンスです。同志社の神学部などでは、神学は教会と独立して存在できると考えているようですが。東神大では昔から、「教会と神学校は車の両輪」というスローガンが生きています(意外に思われるかもしれませんが本当です)ですから、神学が信仰を支えるものでないとしたら、それは神学ではないでしょうね。ただ、リベラルな神学により、福音派は信仰を支えられないとしたら、福音派にとってリベラル神学は神学でないと思いますが、リベラル派にとってリベラル神学が信仰を支えるものであれば、リベラル派にとっては「神学」です。少なくとも、私にとっては、ブルトマンの考えは、私の信仰の支えになっています。もしブルトマンに出会わなかったら、私はとっくの昔にクリスチャンでなくなっていたかも知れません。

    というところが回答です。
    パパさんの質問を読んでいて、パパさんは非神話化の本質をかなり理解されているな、という印象を持ちました。非神話化について説明した甲斐がありました。

    余談ですが、ブルトマンの非神話化と実存論的解釈は、現在ではリベラル派においても過去のものになりつつあるというか、ブルトマンが提唱したそのままでは受け入れられなくなってきているのが実情です。

    一番のネックは、新約のケリュグマを実存論的に解釈することにより、史実性が意味をなさなくなり、個人的な主観主義に陥りやすいということです。特に、ブルトマンは十字架や復活も非神話化してしまうため、十字架や復活の史実性の意味がなくなり、例えば、主の十字架の死を私の実存として受け止め、そこから新しい自分として生きるものへと変えられる、それが復活なのだ、というようになってしまうのです。そうなると、主イエスが2000年前にこの世界に人間として来られた事実はある意味でどうでもよくなってしまう。その点がブルトマンの最大の弱点です。ブルトマンの後継者たちはそれを克服するために苦労しています。

  7. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。

    「もしブルトマンに出会わなかったら、私はとっくの昔にクリスチャンでなくなっていたかも知れません。」
    いつでも結構ですので、そこのところの経緯を当たり障りのないところでお聞かせ願えれば幸いです。

    私自身は福音派から出発し、ペンテコステ派に投合しましたが、「目が開かれる」経験はカウンセリングとの出会いを通してでした。
    またそのことによって複数の視点から物事を見ることが許されるようになったと受け止めています。
    本当に大きな恵みであると感謝しています。
    そのせいか、「~に出会わなかったら」と言うフレーズに心が反応します。
    ヒラぴゃんさんもブルトマンとの出会いが人生と信仰の支えになっておられるのですね。
    それで語る言葉に、いのちを感じるのかもしれません。

    わたしの祖父の兄弟が宣教師だったのですが、(たぶん明治時代)その方は関西にある神学校に入学するのに四国から歩いて行ったそうです。
    国内で牧師をしているときは(メソジスト教会)、一・二年毎の転任で国内を歩き、子供がなくなってしまうことも何回かあったそうですが、そのお墓がどこにあるのか思い出せないものもあるとのことです。
    そしてカリフォルニアの日系人のメソジスト教会(アメリカ合同メソジスト)の牧師をしていました。

    これら苦難の道をたどった方々は皆リベラルです。
    なぜでしょうか?(この問いは自分自身に向けて発しているものです。)

    取り止めのないことを書いてしまいました。お許しください。
    ゴールデン・ウィークをご家族とともにお楽しみくださいませ。
    では。

  8. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。

    私がブルトマンに傾倒している理由をお証しします。

    私が初めて教会に行ったのは25歳のときでした(今から26年前です)
    私は小さな時から理科とか科学が好きで、学校も理系(工業化学)でした。
    両親が若い頃に教会に行っていた関係で、私が小さい頃から毎月教会報が郵送されてきたり、クリスマスには自宅にキャロリングに来てくれたりして、教会は全く無縁ではなく、また、キリスト教が悪い宗教でないことは認識していました。

    しかし、私の頭は理系の構造なので、目に見えて触れることができるものでなければ信じないし、認めない、という論理で生きてきましたし、それで不自由はしませんでした。ですから、自分が教会に行って、キリスト教という宗教を信じるようになるなんてことは、全く考えていませんでした。

    それでも、不思議な神様の摂理でしょうか。学生時代の英語の授業やドイツ語の授業で、テキストに聖書が用いられたことがありました。

    私は、家から両親が昔使っていた古い聖書(文語訳)を持ち出して、それを使って予習したりして楽させてもらった記憶があります。

    ある時のドイツ語のテキストは新約聖書マタイ福音書でした。
    主イエス誕生のとき、東方の博士たちが来訪して宝物を捧げた、というところをやりました。(それが何年か後に、私にとって重要な意味を持つことになるとは露知らず)

    そんな感じで、キリスト教にある程度の親しみを持ちながらも、宗教としてのキリスト教に入信しようとは全く考えない私でありましたが、25歳の時に転機が訪れます。

    あるきっかけで、クリスマスの礼拝に出ることになったのです。
    このきっかけというのを説明すると、それはそれで長い話になってしまうので、またの機会にお話するということにしますが、一言で言えば、キリスト教の神様に義理を立てるために、一度教会に挨拶に行く、そんな程度の認識でした。ですから、そのクリスマス礼拝が終われば、二度と教会の門をくぐることなどないと思っていたのです。

    出席した教会は地元の日本基督教団の小さな教会でした。
    実直そうな年配の牧師さんが優しく歓迎してくれました。

    礼拝が始まり、聖書が朗読されると、それは昔、ドイツ語の授業で勉強した東方の博士の物語じゃあありませんか。

    「おお、ここ知ってる、知ってる。博士が幼子イエス様のところに来て、贈り物を捧げた話だろ。それなら別に説教で解説してもらう必要なんかないよ」

    私はこんなことを思いながら聞いていました。

    ところが説教を聴いて、私の人生観は180度変わってしまったのです。

    説教の内容は次のようなものでした。

    「この博士たちが捧げた宝物、黄金、乳香、没薬は何を意味しているのでしょうか。黄金はいわゆる財産ですね。そして乳香と没薬、これは占星術師である博士たちが占星術のときに使う道具だったことが最近の研究で分かってきました。そうすると、彼らは幼子イエス様に、財産と商売道具を捧げてしまったわけです。財産も商売道具も彼らにとって必要不可欠のものでした。彼らの生活の手段、彼らが生きていく上でなくてはならないものであります。それを彼らは主イエスに捧げてしまった。いわば、主イエスに出会うことによって、彼らは、それまでの彼らの生き方を支えてきたもの、お金、占星術から決別したのであります。そして新しい人生を歩み始めた。この物語の最後に、「彼らは夢でヘロデのところに帰るな、とお告げを受けたので、別の道を通って帰っていった」とあります。ヘロデは博士たちをだまして、幼子イエスの居場所を突き止め、殺害しようと企てていました。しかし、博士たちはヘロデのところに寄らず、別の道を通って帰っていった。これは、博士たちが幼子イエス様に出会い、来たときとは別の新しい人生を歩み始めたことを意味しているのではないでしょうか。今、皆さんは博士たちと同じように主イエスに会うためのここに来ています。皆さんは博士たちがそれまでの自分たちの生活を支える糧を全て捧げて、新しい道を通って帰っていったように、新しい人生の道を歩みはじめますか? それとも、教会に来たときと同じ道を通って、今までと同じ人生を歩み、ヘロデのところに帰りますか?」

    私はこの説教を聴いたときの感動とショックを今でもありありと覚えています。今。この話を書きながらも涙がにじんできました。

    「ああ、聖書にはこんなに深い意味があるんだ。聖書というのはこうやって読むものなんだ」

    私の聖書観は、いわばこの最初の説教で刷り込まれてしまったのです。

    それから、私は熱心に教会に通い始めました。

    朝の礼拝はもちろんのこと、礼拝が終わっても帰宅せず、午後の集会にも全て参加し、協会学校の奉仕をやり、夕拝にも出席し、祈祷会も休まずに参加して祈り、朝、会社に行くときは遠回りして教会の前を通り、「ああ、今日も教会は無事だ」ということを確認してから安心して会社に行く。給料をもらえば、まず最初に献金を分けて、お札一枚一枚にアイロンをかけてピシッとしてから袋に入れる。教会が楽しくて楽しくて、主イエス様に出会えたことが嬉しくて嬉しくて、集会がない日でも何かしら用事を造って、毎日のように教会に通いました。そして、一年後のクリスマスに洗礼を受けたのですが、そのときには自分の心の中では神学校に行って、伝道者になろうという志が生まれていました。牧師先生にその話をすると、本当に神様が君を召しておられるのか、1年間祈りなさい。そして、同時に神学校を受験するための受験勉強をしなさい」と言われたのです。

    私はすぐにでも神学校に行きたかったのですが、牧師先生に言われたとおり1年間祈り続けました。そんな私を牧師先生は温かく見守って下さり、色々と教会の奉仕をさせて下さり、指導してくれました。同時に、神学校の入学試験勉強を始めました。当時の東神大の入試科目は、英語、旧約聖書、新約聖書、世界史、現代国語、古典でした。特に、英語は必修で、英語の結果が悪いと入学できないとのことだったので、さびついた頭に油を差しながら、それまでの人生の中で一番勉強をしました。聖書も、各書の概論を頭に叩き込むと同時に、入試では「この聖句は何書の何章にあるか」という問題が旧約、新約ともにあるので、聖書を一冊、重要と思われる箇所に線を引き、抜書きしながら読み、とりあえず新旧一式の重要聖句を頭に叩き込みました。それと平行して世界史や古典も勉強しなければならないので、時間がいくらあっても足りません。会社には1年後に退職することを申し出てあるので、もし不合格になっても引っ込みはつかない、そんな背水の陣のような受験勉強でした。でも、大変でしたが充実していました。牧師先生は、そんなアタフタと準備している私のことを知ってか知らずか、色々な奉仕を次から次へと与えてくれます。当時は、教会で盲人会と共同で、点字の会もやっていたので、点訳の奉仕もたくさん与えられました。時には、こんなことしてたら受験勉強ができない。もし落第したらどうするんだ、みたいに思ったこともありましたが、やれと言われた奉仕はすべてこなしました。後に、私が神学校に行くときの送別会の席上で、牧師先生は「私は平岡君が受験勉強で苦労していることは知っていた。時には徹夜明けで目を真っ赤にして教会に来たこともあった。でも私は、あえて平岡君に奉仕を与え続けた。もし途中で平岡君が「受験勉強があるから奉仕はできません」と言ったら、その時点で神学校受験は止めさせるつもりだった。」と話され、私は内心、冷や汗ものだったことを覚えています。

    そんなこんなで何とか神学校に合格することができ(ちなみに、15名受験して9名合格でした)、あこがれの神学生になることができたのです。

    しかし、その頃になるとキリスト教界のことが少しづつ分かるようになり、キリスト教には福音派という人々がいて、その人たちと日本基督教団は仲が悪い、と言う事情があることを知りました。

    神学校の先輩に、福音派出身の人もいて、その人(今はもう立派な牧師)は、寮の早天祈祷会の奨励の話の中で、以前行っていた神学校の話をしてくれました。そこでは、お前は救われているか、という空気がピンと張り詰めていて、お互いがお互いを裁き合うような雰囲気があり、自分はそれに耐えられなくてその神学校をやめて東神大に来た、ということでした。

    私はその話を聞いて、ますます福音派に恐れを抱きました。また、福音派の聖書理解は、聖書に書かれていることをそのまま信じなければならない、という話を聞き、自分にはそういう信仰は持てない。もし、自分が最初に行った教会が福音派だったら、自分は信仰を持てなかっただろうな、と思いました。しかし、強い信念を持って聖書をそのまま信じている福音派は手ごわい相手のように思え、それに対抗するためには自分の信仰も理論武装しなければならないと痛感したのです。しかし、その時にはどうやって理論武装していいのか全然分かりませんでした。

    そんなときに新約聖書通論の授業でブルトマンの非神話化の話を聞き、「これだ、これだ!自分が求めていた理論武装はこれだ!」と狂喜したのを覚えています。

    そんなわけで、私は、ブルトマンに出会うことによって信仰を持ったというのではなく、もともと実存論的な聖書理解による説教を聴いて回心し、それを理論的に武装してくれるブルトマンの思想に出会ったというのが真相です。

    その後、色々なことがあって(人には言えないような苦しい体験)、結局、牧師になる道は閉ざされて今に至るまで信徒としてクリスチャン生活を送っています。

    長くなりました。これが私の証しです。

     

  9. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    ↓に、私が導かれた牧師先生の紹介がありますので、よろしければご覧下さい。
    http://www.geocities.jp/hirapyan/mizobe.html

  10. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんにちは。
    このお証を読んで、私は泣きました。恵まれたお証をありがとうございました。

    ○実存的という言葉を、このような意味において用いるのだということを知りました。

    ○牧師先生ご夫妻のお写真を拝見しました。
    きれいなというか、聖いお顔をされていますね。
    平塚は良いところですね。温暖な気候も良いと思いますし、東京に行こうと思えばすぐに行ける距離も良いと思います。

  11. arinopapa より:

    追伸です。
    ヒラぴゃんさんのお証を読むために来訪されている方々が多いようです。
    本音の交流こそが、人の求めるものであると再確認しました。

    傑作なのは「日本基督教団」と「リベラル」の検索ワードで、このブログにいらっしゃる方がおられることです。
    リベラル派のブログじゃ、ないっつ~の。(笑)

  12. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    嬉しいコメントをありがとうございます。

    そうなんです。
    溝部先生ご夫妻は、本当に聖い生き方を貫いて伝道された方です。
    いわば、聖書の生き方を、ご自身の後ろ姿を通して人々に証しし、伝道された方です。

    教会を会場にして行なっていた点字の会には、創価学会の会員の方もおられましたが、その方があるとき私に言いました。

    「溝部先生を見ていると、キリスト教もまんざら捨てたものじゃないね」

    そう言われて、私は嬉しかった。

    私にとって人生の師があるのだとすれば、それは溝部先生をおいて他にはありません。

    • arinopapa より:

      他宗教の方に、そのように言っていただくと本当にうれしいですね。

      返コメを長々と書いていたのですが、これを5月4日の「文章」にしてアップすることにしました。
      リベラル派の回心経験と福音派の回心経験を両方のせることによって、読者がその共通点と違いについての思索を深めることの助けになればと願っています。
      それでヒラぴゃんさんのお証のURL を貼り付けておこう思いますが、よろしいでしょうか?
      聖書観と異言にかかわることに限定するとお約束しましたので、了解をいただきたいと思います。
      もし削除してほしい部分がありましたら、お伝えください。よろしくお願いいたします。

  13. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさんへ。
    了解しました。
    私のつたない証しが少しでもお役に立てるのなら嬉しいです。
    今後も、別に私に断る必要はないので、ご自由に引用したり、リンクを貼っていただいてかまいません。
    最近、このブログに書くようになってから、自分のHPはほったらかしです
    (大笑)。
    私のHPにもこのブログのリンクを貼っても良いですか?

    • arinopapa より:

      ヒラぴゃんさん、ご了解いただき感謝をいたします。
      あとリンクのことですが、どうぞどうぞリンクでも絆創膏でもなんでも貼ってください。
      アメリカのyahooはホームページサービスを止めるそうで、日本のyahooは続けると言っています。
      ヒラぴゃんさんがブログをお始めになられると、夢の対局が実現します。(妄想大爆発)

      (大笑)のところで、私も手をたたいて大笑いしてしまいました。では。

      追伸です。
      敬称が抜けているコメントがございました。ただいま修正いたしました。
      お許しください。申し訳ありませんでした。

  14. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。
    ありがとうございます。
    早速、私のHPの「お気に入りのサイト」欄にリンク貼らせていただきました。

    PS.敬称のことなんか別にいいです(笑)
    私も、急いで打っていると、よくあります(笑)

  15. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    こんにちは。
    ヒラぴゃんさんの渾身の証、あまりに感動して私も泣いてしまいました。

    翻って、なんちゃってクリスチャン、ヘタレ信徒の自分をかえりみて、ゲンナリして吐き気を覚えました。

    もっと信仰について、真剣さ、一死覚悟の気持ちが欲しい今日この頃です(泣)

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      ありのままで良いんですよ。

      またコメントしてください。お待ちしています。