考える人と考えない人

あるときパウロのようにありのパパにも御使いを見せてくれないかと、神様にお願いしたことがありました。
そうしましたら「おまえに御使いを見せたら、考えることをやめてしまうから駄目」と言われたように感じました(笑)。

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①正しいと一旦思うと疑わなくなる危険がある

パウロやペテロは奇蹟見放題であるにしては、どちらも考える人たちでした。

福音の恵みが異邦人にも及ぶかどうか。
救われた後でも律法を守る必要があるのか。

現代でも難問ではないかと思えるような事柄について果敢に挑戦していきました。
そして躊躇せず答えを出し、その答えを土台にして前進していきました。
彼らには建前と本音はありませんでした。

これに比べると現代人は一旦当然のこととされてしまうと考えるのを止めてしまう傾向があるのではないでしょうか。
教会成長運動にしても、人を救いに導くのが目的なのに、教会を成長させることが目的になってしまい、それを疑問にも思わなくなってしまいました。
また、リベラル派にしても福音派にしても当然のこととしていることを疑うことをいたしません。
なぜでしょうか?

②ユダヤ的価値観とギリシャ的価値観

読者さんとのコメントのやりとりの中で、ユダヤ的価値観の構造とギリシャ的価値観の構造の違いについて考えたことがありました。
ユダヤ的価値観とは霊的価値観が価値観の最上位に来て、その他の文化観や国家観や人生観が霊的価値観に従属するというものです。
これに対してギリシャ的価値観は各価値観が基本的に対等の関係であり、あるのは優先順位のみというものです。
 
ユダヤ的価値観の持ち主ですと、最上位に来る霊的価値に他のすべての価値観を従属させますから、常に「ではどうしたら良いか」を自らに問いかけることになります。(いつの場合も、すべての人がそうなると言っているのではありません。)
これがパウロやペテロのように奇蹟見放題でも、考えることをやめなかった理由だと思われます。

③ギリシャ的価値観の弱点

ギリシャ的価値観の場合ですと、各価値観に優先順位はあっても、基本的に対等の関係ですから、同じぐらいの力関係をもつ価値観の場合うまくいくのですが、一つだけずば抜けて強い価値観があると、価値観(の構造)全体がフリーズしてしまう危険があります。
これが価値観構造の第一位にくる霊的価値観であるキリスト信仰の持ち主が奇蹟などの強烈な体験をしてしまうと思考停止状態に陥ってしまう理由であろうと思われます。
そのあとには、様々な価値観がフリーズしたままですから、目を覆うような暴走が始まることになります。
では私たちはどうしたらよいでしょうか?

④解決策はどの道?

選択肢は三つあります。

一つ目の道は、ギリシャ的価値観からユダヤ的価値観へと転換することです。

パウロのように生きていきたいと思う方は、一番目の道を選ぶでしょう。
この場合は霊的価値観と他の価値観との緊張関係を常に持ち続けなければ、ただの独りよがりになってしまいますから注意が必要です。

二つ目の道は、ギリシャ的価値観をもったまま、どんな状況があっても各価値観がフリーズしない手立てをとることです。

言ってみれば拡張されたギリシャ的価値観とも言うべきものをもつことです。
日本が好き、日本文化を愛しているという方は二番目の道でしょうか。
この場合は常に自分自身が聖書的生き方をしているかをチェックする必要があります。
そうしないと自己満足的な名前だけのクリスチャンになってしまう危険があります。

多くの人々は二番目の道を通って信仰生活を歩もうとされるのではないでしょうか。
これが信仰に入っても、なかなか聖書の中の登場人物のように人生が劇的に変わらない原因の一つであると思います。

三つ目の道は、どのような道でしょうか?

イエスを信じる信仰によって救われたなら、それにふさわしい生き方をしなければなりません。
誤解をしてはならないことは、これは新しい律法主義の勧めではないということです。
聖書の言う新しい生き方とは、「良い」と「駄目」という二元の壁を打ち壊して「すべてが素晴らしい」と受け止める生き方です。
これが律法から解放された生き方であり、キリストにある自由な生き方の本質です。
この生き方こそが三つ目の道であるのです。

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コメント

  1. コル より:

    ありのパパさんこんばんは。私には正直いって難解な文章でした。まず言葉の定義ですが、私は、この文章の
    「ユダヤ的価値観」を=神中心、信仰中心 
    「ギリシヤ的価値観」を=人間中心 哲学、思索的 
     として読み進めていきました。
     確かに奇蹟は使徒たちは決して、自分の力が奇蹟を起こしたなどと人間中心になることなく、あくまで神中心でした。しかし、弱い人間ですから、ややもすれば奇蹟によって、それを体験したことで高慢になり、神様にある考え方をやめることもあり得ますね。
     このあたりまでは理解できたのですが、後半は正直申し上げてよくわかりませんでした。ただ、ありのパパさんが述べたかったことは、教会がこの世的価値観に支配されてはいけない、人間中心ではいけない、日本の教会や個人の信仰生活が、主イエス様中心の信仰生活であってほしいということかなと解釈いたしました。・・・・そんなに単純な解釈ではいけませんか?
     「日本教キリスト派」なる言葉はイザヤベンダサンが使用していたことしか知らなかったものですから、私は、先の文章で質問いたしました。「日本教キリスト派」の意味が、もし、「あれもよし、これもよしのこの世的な教会」を意味するなら、確かに「日本の将来は暗い」といえます。しかし、イザヤベンダサンが使用していた「日本教キリスト派」の意味はそうではないと私は理解しています。最近「訓読すべきキリスト教」佐藤博氏著を読みました。この本の視点もイザヤベンダサンに類似しているかなとも感じました。そして、共感する部分が多くありました。
     いずれにしましても、どのような文化理解があったとしても信仰の創始者である主イエスから目を離さないことが鉄則でしょうね。また、よろしくお願いします。

  2. arinopapa より:

    コルさん、こんにちは。
    コメントいただき、ありがとうございます。

    分かりにくい文章を書いてしまい、申し訳なく思います。
    それにもかかわらず何とか理解しようとしてくださるコルさんに敬意を表します。

    「ユダヤ的価値観」とは、価値観の構造が三角形の形をしており、一番てっぺんに霊的価値観がきます。
    そしてこの霊的価値観と他の価値観は従属の関係にあります。

    これに対して「ギリシャ的価値観」は、価値観の構造が箱庭のような形をしており、各価値観に優先順位はあるものの、各価値観は独立して存在しており、対等の関係です。

    たとえますと、ギリシャ的価値観ですと、信仰に入ったからといって、すぐさまそれが生き方の改変には繋がりません。
    なぜなら霊的価値観と人生観はリンクはしているものの、従属の関係にはないからです。

    しかしユダヤ的価値観の場合ですと、入信したその日から生き方は全く変化してしまうのです。

    わかりにくく思われた後半の部分は、私なりのこの問題への解決策を提示したつもりです。
    ①宣教師を通して宣べ伝えられた敬虔主義キリスト教は、日本的価値観の中にいる日本人クリスチャンに対して、価値観構造の変換を求めました。
    そして多くの日本人クリスチャンがまじめにそうなろうと努力しますが、結局挫折して日本人にはキリスト信仰は合わないという間違った結論を出して教会から離れていきました。

    ②日本的キリスト教とか、日本教キリスト派とよばれるものに活路を見いだそうとする人たちの努力があります。
    (多くの議論があることを承知していますが)これは結局日本的なものへの埋没に繋がりかねない危険を内包していると言わざるを得ません。
    このような危険性を持つものに、キリスト信徒の永遠に関わる問題を委ねることを承服することは出来ません。

    ③ではどうしたらよいか。
    聖書的価値観の本質は何かということを考えるとき、それは二元の壁を打ち壊して、すべてのものが良いとしてくださった一元の世界に生きる生き方に徹していくことであると確信します。
    そのような生き方をしていくとき、聖書の要求である「正しい人は(我力ではなく)信仰によって生きる人である。」が成就するのです。

    もっと判らなくなったと思われるかもしれませんが、この辺でご容赦ください。
    またコメントしてください。お待ちしています。

  3. 岡田 より:

    こんばんわありのパパさん

    コルさんも こんばんは いつもご意見を きかせていただき 参考に さして もらっています

    ありのパパさんの おっしゃる ピラミッド型の 信仰形態というのは 内村鑑三氏の考えに近いのでしょうか つまり

    わたしは日本のために 日本は 世界のために
    世界はキリストのためにそしてすべては神のために

    この順番を 上下逆転 させれば パウロ的 世界感に 近いのでしょうか

  4. arinopapa より:

    岡田さん、こんばんは。
    私はイザヤ・ベンダサンも内村鑑三も知らないんですよ。
    育ってきた信仰の環境の影響により、少しでもリベラル色のあるものには拒否感があるのです。
    「ピラミッド型の信仰形態」とは、信仰そのものを指しているのではなく、いろんな価値観の関わり合い方を指す言葉です。
    上位に来る価値観が下位にある価値観を従属・支配する構造です。
    このゆえに信仰上の決定がすべての範囲に及びます。
    日本的価値観を含めたギリシャ的価値観は、各価値観が対等の関係にあるゆえに、信仰上の決定がすべての範囲に及ぶということがありません。
    ユダヤ的価値観の長所は聖書的であるということですが、短所は他者との摩擦が不可避であるところです。
    ギリシャ的価値観の短所は信仰を持っていてもそんなに代わり映えしないというところであり、長所は他者と平和共存可能ということです。
    福音の価値観は第三の価値観であり、第一の価値観と第二の価値観の長所と短所を包み込む生き方であるのです。