リベラル派教会と福音派の対話(その2)

今日は昨日に引き続き、異言と聖霊のバプテスマについて、リベラル派の兄弟からいただいたご質問をともに考えてまいりたいと思います。

兄弟のコメントのURLを下記に張り付けておきますので、どうぞお読みください。

異言を人為的に語ることその2

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目次

リベラル派と福音派の対話

①異言は、聖霊のバプテスマの唯一のしるしであると理解し、異言を語らなければ聖霊のバプテスマは受けていない、と考える人や、もっと極端に(イエス之御霊教会のように)、異言を語らなければ救われない、とまでいう人もいます。
反対に、異言は聖霊のバプテスマのしるしの一つであり、異言を伴わない聖霊のバプテスマもあり得るという立場も存在するのでしょうか? 

聖霊派のなかでも明確に意見が分かれるところです。
ペンテコステ派とカリスマ運動は必ず異言が伴うと信じますが、聖霊第三の波の人たちは聖霊のバプテスマに必ず伴うものとしての異言を認めません。
というか、聖霊のバプテスマそのものを強調することがありません。

②確かに聖書の中には「水のバプテスマ」と合わせて「聖霊のバプテスマ」についての記述がありますが、両者の関係はどうなっているのでしょうか?

水のバプテスマが救いを表すものとしますと、聖霊のバプテスマは救いの後に続く、救いとは別の経験であるとするのが、一般的なペンテコステ派の理解です。
ペンテコステ派のなかでもウェスレアン系は第二の恵みであるとしますし、カルビン系はそのような理解は持たず、単に救いとは別の経験であるとします。

③そもそも、ペンテコステ派の「異言を伴う聖霊のバプテスマ」という教理は、前身であるホーリネス教会の「聖化」の教理を発展させたものであると思うのですが、ホーリネスの「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の四重の福音の中で、新生と「聖化」が区別されているように、ペンテコステ派においても「新生(水のバプテスマ)」と「異言(聖霊のバプテスマ)」は明確に区別され、人間の救いは「新生」にあり、聖霊のバプテスマは「クリスチャンへの力の付与」であり、これを受けなくても「救い」に関係はない、と私は推測しているのですが、この点はいかがでしょうか?

その通りです。

④確かに、クリスチャンとして力強く歩んでいくためには聖霊のバプテスマは必要かも知れませんが、先ほど私が言ったように、クリスチャンは誰でも(リベラル派であっても)「イエスはキリストなり」と告白している以上、水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマも受けていると考えれば、リベラル派のクリスチャンの中にも、信仰の確信を持って、何物も恐れず宣教に励む人たちが大勢いるということの説明もつくと思うのですが如何でしょうか?

そのように言うことも出来ると思います。
しかし信仰の強い人なら、他宗教の人にもいます。極論すると無信仰の人の中にも信念の強い人はおられます。
ですから信仰・信念が強いから、聖霊のバプテスマを受けているということにはなりません。
水のバプテスマと聖霊のバプテスマは別のものであるとの理解が、ペンテコステ教会を他の教会と区別する点なのです。
ペンテコステ教会は、神様がこの真理を宣べ伝えるためにお立てくださったのだと理解し信じています。
そしてその結果が今のようなペンテコステ教会の地球規模のリバイバルを生み出しているのです。
これをどのように理解し、受け止めるかということは個々人のクリスチャンに委ねられていると思います。

⑤私が疑問に思うのは、「異言が聖霊のバプテスマの明確なしるし」であるのだとすると、「異言を語った人がそれによってこのように変えられた」というような変化の有無で、その異言が本物かどうかを判断するというのは本末転倒な感じがしなくもありません。
「しるし」であれば、それ自体が「しるし」であるはずなので、その「しるし」が本物かどうかを、異言を語った人の変化によって吟味・判断するのであれば、その人の「変化」の方が「しるし」となってしまうのではないでしょうか?

まさに仰る通りだと思います。
その故にやはりこれは信仰運動としては不健全なものであると思います。
あと「印」であるとする理解も聖書的には弱いと思います。
「必ず伴うもの」とするのが、聖書から見ても妥当ではないかと考えます。

⑥そもそも、異言はキリスト教に特有のものではなくて、他宗教でも見うけられる現象です。
その異言が神から来たものか、そうではなく悪霊からきたものなのか、あるいは単に人間の暗示にすぎないものなのかを吟味しなければならない、そのようなもの(失礼な言い方で申し訳ありません)が果たして「証拠」となり得るのだろうか、という疑問が私の心の中に常にあるのです。

なぜ聖霊のバプテスマのときに異言が同時に与えられるのかの理由がそこにあると推察します。
聖霊のバプテスマの目的は信者をして御霊で一杯にすることですから、その時が霊的には一番安全なときです。
ちょうど手術を無菌室で行うように、異言が与えられるとき間違って神以外の霊的存在からの異言を受け取ってしまわないために聖霊のバプテスマによって御霊で一杯になっているときに異言を神がお与えになられるのだと考えます。

⑦使徒行伝2章のペンテコステの出来事の中で、弟子たちに聖霊が下ったとき、彼等は「異国の言葉」で語り出したとあります。
そして、弟子たちが語る言葉は、外国から来た人々に理解できた、とあります。
ということは、ここで弟子たちが語ったのは、いわゆる「異言」ではなくて、弟子たちが知らないはずの「外国語」だったということになりませんか。
知らないはずの外国語を語ることも「異言」の一種とみなされているようですが、果たして本当にそうなのかどうか、聖書にはその明確な答えはありませんが、なぜペンテコステ派では「外国語」も「異言」の一種と考えるのでしょうか。
それは、少しいじわるな見方をすると、そのように理解しないと、聖霊が下って異言を語ったという教理が成立しないからとも思えてしまうからです。

実は私もそのように思っていた時期がありました。(もちろんペンテコステ派に合流する以前のことですが。)
しかしよく考えてみると、どのような「異言」をお与えになるかは、神に主権があることであり、神がみこころに従って、ある時は外国語であったり、またある時は神様との個人的な祈りの言葉であったりしても少しも不思議はないと思いますがいかがでしょうか。

確かに仰る通りペンテコステの出来事は私たちが知っているような異言ではなく、まぎれもなく外国語でした。
しかしそれは今申しましたような理解によるなら、何ら問題はないと思います。
もちろんこの主題に関して聖書は明確に語っていませんから、論理的に破綻のないように、聖書に矛盾のないように、ペンテコステ派の神学から説明したにすぎません。
これは第一に大切な問題ではなく、解釈や理解に幅を持つことが許される領域の問題であると考えます。

聖霊第三の波の神学者が「聖書が明確に主張していることは私たちも明確に主張しなければならない。そして聖書が必ずしも明確に主張していない事柄については、私たちも同様にあまりに明確に主張することは避けなければならない。」と言われている通りです。

今日はここまでといたします。
皆様の忌憚のないご意見をお待ちしています。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。おはようございます。
    昨日に引き続き、第2回目をありがとうございます。
    昨日は聖書観を中心に、今回は異言を中心に書いていただきました。

    「文章を書きながら感じたのですが、聖書観の問題を論じるときは先鋭的になりがちなのですが、異言の伴う聖霊のバプテスマの問題を論じるときは何か心に静けさを感じるのです。」

    パパさんは、最後にこのように告白しておられます。
    確かに、昨日のブログと今日のブログを読むと、文章そのものが違いますね。
    昨日は「先鋭的」、今回は「おだやか」な感じがして、私も今日のブログは心穏やかに読むことができました。

    私としては、「異言」について私の意見の方がパパさんを刺激して、パパさんの回答が「厳しい」ものになってしまうのではないかと思っていたのですが、逆でした。あまりの穏やかさに拍子抜けしてしまったほどです(笑)。

    「聖書観」と「異言」この2つともパパさんにとっては「譲れないもの。妥協できないもの」であると思います。

    昨日、聖書観の違いについて、非常に強く論じられた文章を読むと、聖書が神の言葉であり、キリスト者にとって絶対に曖昧にできないものだ、というパパさんの強い信仰と信念が痛いほど伝わってきました。読んでいるときに、「畏れ」(恐れではありません。畏れです)を感じるほどでした。

    私とパパさんの聖書観は確かに違います。私は私なりに、独自の聖書観を持っています。ですから、パパさんの意見を聞いていて、反論しようと思えばいくらでも反論できるという自信(変な言い方ですみません)があるのですが、昨日はパパさんの文章に圧倒されて、具体的な反論をすることができず、とりあえず他の人の意見を聞いてから書き込みしようと思ったのですが、残念ながら、他の方の書き込みがありませんでした。残念です。という訳で、私の主張したいことはとりあえず以前の書き込みで書いてあるので、実は、昨日のパパさんの意見に対する回答を、途中まで書いたのですが、止めてしまったのです。
    聖書における「神の霊感」の問題、聖書の「無謬性・無誤性」の問題、聖書における「神の言葉」の問題。おおきく3つの問題提起がされていました。
    この3つの問題は、それぞれ非常に大きな問題なので、一度に回答することはできません。昨日は「神の霊感」について書き始めたのですが、先に述べたように途中でやめてしまいました(失礼)

    金曜日の夜は週報の作成もあるので、ちょっと時間に余裕がなかったこともあります。この3つの問題についての私の回答は、3回に分けてそれぞれ回答したいと思いますので、ときどき「対話 その1」をのぞいてみてください。

    パパさんが、聖書観については「先鋭的」になる理由は、パパさんがいかに聖書を愛しているかということの証しであると思います。パパさんのように聖書に対して真摯な態度で臨む方がおられる限り、福音派は安泰だと思います。偉そうな書き方で申し訳ありません。決して上から目線で言っているのではなく、素直に敬意を表して言っているのです。聖書観は私と違いますが、聖書に真理を見出そうとする探求者の姿勢には、立場の違いを超えて敬意を覚えます。

    また、パパさんが「異言」について書く時には、心に静けさを覚えるのは、異言によって、神さまがパパさんを愛し、慰さめ、力を与えてくれるものだからだと思います。パパさんは神さまに愛されていることを異言によって実感できるのですね。それはペンテコステ信仰を持つ者だけに与えられる特権かも知れません。少なくとも、リベラルな立場の私にとって、そのような恵みはないのです。本当にうらやましいと思います。

    こうして書いていて、パパさんは神さまを愛し、神さまに愛されている、まさに神さまと相思相愛の関係なのだなあ、と気づきました。少し嫉妬の思いがあります(笑)

    異言について、パパさんの見解を聞けてよかったです。
    聖書観については、今後、少しずつ意見交換をしていきたいと思いますが、「喧嘩」にならないように「穏やかに」意見交換をするように気をつけたいと思います。

    それではまた、書き込みしますね。

    • arinopapa より:

      ヒラぴゃん、おはようございます。
      リベラル派の方からのコメントがありました。
      議論が活発に、かつ礼節を守って行われることを願っています。

      ①異言の問題は世界大の視野で見れば、既に「勝負あった」と言いますか、「解決済み」の問題であると認識しています。
      それはどなたが否定しても、世界中に広がったペンテコステ教会をつぶすことは出来ないからです。
      それに比べて聖書観の問題は、「ホット」な問題です。
      どちらかと言うと福音派に「後はない」神学状況だと思います。
      それを考えるとき、ペンテコステ運動の創始者たちが異言を聖霊のバプテスマの「印」とせざるを得なかった気持ちもわかるような気がします。
      きちがい扱いされるか、正統教理とされるかの瀬戸際に立たされているとの強迫観念があったのではないでしょうか。

      ②聖書観についての議論は、いわば第二幕ですね。
      言うまでもなく第一幕は、自由主義キリスト教と根本主義キリスト教です。
      この主役たちは今どこを探しても見つけることが難しいです。
      根本主義キリスト教は当時の評価によると、「議論には勝ったが、勝負には負けた。」ということらしいです。
      福音主義キリスト教もそうならないよう、礼節を守って議論を行いたいと自戒しております。
      首を洗って待っていますので、お手柔らかにお願いします。(笑)

      ③日本基督教団問題、とくに設立の経緯、戦後に教団を解体しなかったこと、偶像礼拝の罪をいまだに悔い改めようとしないこと、これらについての問題点は私の方からは指摘し尽くしましたので、今後は(特段の状況の変化がない限り)私の方からこの問題を言いだすことは控えたいと思います。
      ヒラぴゃんさんがこの問題についてコメントされることは、当然のことながら全く自由ですので、よろしくお願いします。

      思慮に満ちたコメントを感謝します。
      土曜の朝から癒されてしまいました。(笑)
      週報づくりのご奉仕、ご苦労さまです。
      こうやって教会は支えられているのですね。
      今日も一日、聖霊である神様がヒラぴゃんさんとともに、そしてイエスを信じるすべての方とともにいてくださることを祈ります。

  2. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、おはようございます。

    「その1」のリベラル派の方の書き込みを読みました。
    これをきっかけにして、色々な方が議論に参加していただけることを願います。

    この方のコメントの中で、聖書は「僕自身は、むしろイエス・キリストを証しているとすら思えません」と書かれていますが、この続きを読む限り、この方がここで言われている聖書は「旧約」に限定されていると思います。
    「旧約」の中に、イエス・キリストを読むのは、「予型論的解釈」と言います(ご存知かも知れませんが)。新約の中で旧約が引用されている場合は、ほとんどがこの予型論によっています。中には、現在の聖書学から見れば、かなり強引な引用や解釈も見受けられます。

    しかし、確かに理性的に考えれば、主イエスが生まれる以前に書かれた書物の中に新約の「イエス・キリスト」を見出すのは「無理」があるので、この方が旧約聖書がイエス・キリストを証ししているとは思わない、というのも私には理解できます。

    ただ、旧約の時代からメシア待望はあったわけで、旧約が現在の形に編集(すみません。編集という概念はリベラル派にしか通用しないかも知れませんが)される過程において、将来現れるであろう救い主を待望する思想は当然のことながら織り込まれています。そのユダヤ人のメシア待望の希望を、イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンの立場から読むと、旧約に書かれているメシアこそ主イエスなのだ、という解釈ができると思います。そういう意味で、私は、旧約もイエス・キリストを証ししている書物だと理解しています。

    と、ここまで書いて、このコメントは「その1」に書いた方がいいかも、と思いましたので、この書き込みをした後で、重複しますが「その1」にも書き込みさせていただきます。

  3. より:

    ありのパパさん、こんにちは。

    異言の事になると、力が入りますね(笑)
    私は、聖霊のバプテスマを受けると、異言が伴う事があると信じています。
    しかし、私には、聖霊のバプテスマを受けても、異言は伴わないようです。
    一種の神秘的な体験です。
    キリスト教には、マイスター・エックハルトやグレゴリウス・パラマスのような、神秘主義もあって、これも聖霊のバプテスマの一形態かと思います。
    また、カール・バルトは、聖霊のバプテスマを信仰の「決断」だと論じています。
    いずれにせよ、聖霊のバプテスマには、いろいろな形があるようです。
    この事を考えると、神ははかり知れないなとおもいます。

    失礼しました。

    • arinopapa より:

      こんにちは、仲さん。
      コメントをありがとうございます。

      神の賜物を受取る人間の側で、偏見や恐れがあると、聖霊のバプテスマのときに一緒に与えられるように定められている異言で祈る賜物を受け取り損ねてしまうことがあるのではないかと考えています。
      私の場合がそうでした。
      しかし聖霊のバプテスマには異言が伴うものであることを聖書から確信したとき異言で祈る賜物が与えられました。
      それで後に続く人たちが余計な回り道をしないで済むように「力を込めて」語るようにしています(笑)。

      よろしくお願いいたします。