福音派教会を賑わしているセカンド・チャンス論は聖書とは異なる教え

最近、福音派教会を賑わしてい教えにセカンド・チャンス論があります。
果たして、これは聖書から出ている教えでしょうか?
それとも聖書に反する教えでしょうか?

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①セカンド・チャンスとは?

それは死んだ後にもう一度信じるチャンスが与えられるという教えです。

はじめに結論を言いますと、ありのパパはこれは異端であると認識しています。
この異端はキリスト教の歴史上繰り返し現れた誤謬であるので、この説を大真面目に受け入れる人はいないだろうと思っていたのですが、そうでもないようです。
なぜならカトリックやリベラル派キリスト教は、この教えに神学的に親和性があり、警戒していないとこの説を受け入れてしまう素地があるからです。

②死後の救いについて意見が違っても一致できるか?

あるブログで死後の救いについての議論が行われておりました。
このような議論をしていると必ず「セカンド・チャンスに関して意見が違っても、他の部分では神学的に一致することができる」と言う人が出てきます。

果たしてその通りでしょうか。
このように主張する人たちは、セカンド・チャンスは神学の一分野に過ぎず、そんなに大騒ぎすることはないと考えておられるようです。
これが神学的になんでもありのリベラル派キリスト教なら分かりますが、聖書を誤りのない神の言葉と信じる福音派キリスト教からも出てくるとなると驚きを通り越してあきれてしまうものです。

このセカンド・チャンス論は本当に神学的に枝葉の問題でしょうか?

③死後に救いはあるのか?それともないのか?

死後に救いがあるのに、それを言わないで今信じるように勧めるなら、私たちは詐欺師ということになります。

しかしもし死後の救いがないのに、あるかのように振る舞うなら、詐欺師どころではない神の御前でも人々に対しても決して赦されない罪を犯すことになります。

ですからこの問題は決して枝葉の問題ではありません。
そうであるにもかかわらず「セカンド・チャンス以外の点で一致できるのだから、そのほかの点で一致すればよい」などと、なぜ的はずれなことを言うのでしょうか?

これは片方が真実であるとすると、もう片方は偽り者となることなのです。
この偽り者は神から出ていません。

④聖書はなんと言っているか?

聖書は明確に『人は生きている間に主にお会いする準備をしなければならない。』と言っています。
また『今日という日が救いの日であり、恵みの時なのだ』と言っているではありませんか。

聖書の「ラザロと金持ちの話」をたとえ話とする根拠はありません。
実際にあったこととして理解することが十分可能です。
金持ちにセカンド・チャンスがあったでしょうか?

セカンド・チャンスを言わないと、神が残酷な方となってしまうと言う方もおられますが、この金持ちに向かってイエスは何と言われたでしょうか?
これが神の答えなのです。
それを人間がやすっぽいヒューマニズムで不純物を混ぜ合わせてはなりません。

⑤死後の世界で神が福音を語って、それでも信じない人はいるか?

一人もいないと思います。まさに百発百中の伝道の成功率でしょう。
多分一日で全世界の人がクリスチャンになると思います。
ではなぜ、この世においても神が直接福音をお語りにならないのでしょうか?
このことをクリスチャンはよく考える必要があります。

もしセカンド・チャンスが真実だとしたら、伝道などする必要はなくなります。
逆にセカンド・チャンスが偽り者の言説だとしたら、イエスの十字架を無にすることになります。
セカンド・チャンス論は論理的にも、聖書的にも、神学的にも誤った教えです。

セカンド・チャンス論が、聖書的装いを身につけているように見えても、全く聖書から出ていない教えであることは明白です。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. 岡田 より:

    こんばんはは いつも ご苦労様です。

    私は、この論を 唱えて おられる牧師は 久保ありまさ師しか 存じておりません。
    冊子レムナントの なかで 執筆されておられます 2冊もっています。

    正直に 申しますと 異端か否か 白か黒か はっきりとした 判断が わたしには、できないのです。

    つまり 福音に 全く 触れる 機会が なく逝った魂を 神様は どのように とり 扱われるのか という問題を旧約 新約聖書のなかから いろいろな 記事を 取り出してこられ、 未信者は 死後 すぐに地獄に落ちるのではなく 陰府に行く そう 説明されています。
    すべて聖句が 用いられて いるため 頭から 否定することは できにくい と感じてしまうのです。

    赤ちゃんや知的障害者も救われている可能性があると、メッセージされてます。

    それとは逆に このレムナントは 明らかに、異端である と はっきりと 否定しておられる 先生が わたしの 近所に おられます。
    この 牧師さんも やはりすべて 聖書から 論証して おられます。
    未信者は すべて 死後 即 地獄に落ちる。
    地上の人生で 福音を聞き 悔い改め 十字架の救いを 受け入れた もののみが 天国に いける そのような お考えです。
    これはもまた 至極、聖書的です。

    ぼくの結論は やはり クリスチャンは教会は セカンドチャンスの ことは 期待しては いけないと思います。

    私たちは 毎日 この人をあの人を 主よ どうか救ってください そう祈っています。

    もちろん この 地上の生涯で できれば 明日にでも それが 切実な 願いですから。

  2. arinopapa より:

    おはようございます。
    セカンド・チャンスを受け入れてしまう理由として、福音を信じないで死んだ人の問題が確かにありますね。
    しかしその問題を言う人(死後にチャンスがあると言う人もないと言う人も両方です)の致命的な欠陥は、神よりも人間を上位に置いているということです。
    ①神様は私たちが心配してあげなければご自分のお仕事を成し遂げることが出来ないような方ではありません。
    ②神を信じると言うことは、神様を信頼するということでなければならないのですが、この問題を心配する人は神を信頼することを忘れているかのようです。
    ③イエス様に自分の人生を委ねたとき、この問題も神様に委ねてしまったのです。

    どんな主張も論理によって成り立っています。
    そして論理と言うものは一人歩きするものです。
    このセカンド・チャンスの論理的帰結は、『生きている間は快楽を楽しみ、死後に神の救いを受けよう。』ということになります。
    もちろんセカンド・チャンスの主唱者たちはそのようなことは言っていないのですが(もしそんなことを言ったとすれば、すぐにも教会の異端宣告が下ってしまうでしょう)。

  3. 岡田 より:

    ありのパパさん

    ご返答 ありがとうございます

    クリスチャンは、気づいていないかもしれませんが、聖書には こう書いて あってほしい 神様は こうで あってほしい という、人間的な 願望が あるように思いました わたしも、そうです

    セカンドチャンス論に しても 祈り求めれば 金持ち論に しても そうあってほしい そうなりたい という 人間的願望から、 聖書の 箇所を 寄せ集めて きている傾向を 感じます

    神様の 前に 空白の心を 持つことの 大切さを おしえられました 感謝 いたします。

  4. arinopapa より:

    岡田さん、こちらこそご返答ありがとうございます。
    ところで岡田さんの返コメを読んでいて気づいたのですが、イエス様は信じている人に対して「天国に行けなくなることを恐れよ」と言われたのでした。
    これをまともに受け入れていれば、信じてない人の心配をするどころではない、自分の心配だけで精一杯と言うのが本当のところではないでしょうか。
    パウロが「神の前でも人の前でも、責められるところのない良心を保つように常に努力してきた。」と弁明していたようにです
    自分は絶対大丈夫だと勘違いしているからこそ、信じてない人への余計なお世話をする余裕が生まれてしまうのではないかと思いました。

  5. より:

    ありのパパさん。こんにちは。お元気にしてますか?残暑お見舞い申し上げます。
    仲です。

    セカンドチャンス論は形こそ違いますが、初代教会では普通に信じられていて、初代教会の伝統を受け継ぐ正教会では今でもこのように信じられています。このため、正教会では死者の為の祈りがあります。

    エイレナイオス、ニュッサのグレゴリウスなどは、万人救済の希望を述べているし、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスに至っては「最後は悪霊ですら救われる」と言っているほどです。
    きわめて、聖書主義的であり、20世紀最大の神学者カール・バルトは、「唯一捨てられたのが、イエス・キリストであるから、地獄に落ちる人はいない」と言っています。
    最も、すべての人が救われるとまでは言ってませんが。
    エミール・ブルンナーは、万人救済と限定救済を緊張関係におき、留保しました。
    バルトもブルンナーもナチスと果敢に戦った人です。

    東京神学大学総長の熊沢義宣氏や加藤常昭氏は説教の中で、セカンドチャンスを述べられております。
    二人共、改革派の牧師であり、聖書をよく研究されている方ですが、そうした中での結論なのでしょう(東京神学大学は世界でも、評価の高い大学として知られております)。

    グラスゴー大学の神学者ウィリアム・バークレー、フラー神学校のグリーン氏などもセカンドチャンスを述べられており、また、大和カルバリーチャペルの大川従道氏もセカンドチャンスを述べられております。
    カトリックでは、無名のキリスト者が広く信じられており、ヨハネ・パウロ二世やフランチェスコ一世もこのような事を述べられております。
    また、マザー・テレサも、ヒンドゥー教と、イスラム教徒は煉獄に行くと信じて奉仕していました。

    ビリーグラハムは、「クリスチャンでない人も救われ得る」と述べられました。

    このような包括主義的な考えは、創世記からヨハネの黙示録まで一貫して見出せます。
    聖パウロは、万人が救済される希望について何度も語っておられるし、聖ペテロは、キリストのよみ下りについて言及しておられます。
    キリストのよみ下りは使徒信条、ニケーア・コンスタンチノープル信条にも書かれており、セカンドチャンスが初代教会で信じられてきた証拠です。

    韓国では、セカンドチャンスか無名のキリスト者のどちらかの教義が語られているはずで、そうでないとあのリバイバルの説明がつきません。
    韓国は儒教の強い国ですので、そのような事を言わないと、宣教できないからです。
    日本人の牧師も見習うべきだと思います。

    日本人の牧師の多くがセカンドチャンスを否定するのは、セカンドチャンスを述べると、アメリカの教会の援助が得られないからです。
    この事の為に、多くの牧師や信徒が傷つき苦しみ、また躓いています。
    この背景には、アメリカに対するコンプレックスと従属があると思います。

    長文失礼いたしました。

    • arinopapa より:

      こんばんは、仲さん。
      コメントをありがとうございます。

      今日一日で複数のコメントをされておられますが、どのコメントも言わんとされておられることは同一と思われますので、このコメントのみを掲載させていただくことにいたしました。
      ご了承ください。

      その一つ一つに詳細に答えさせていただこうかとも考えましたが、それでは議論が平行線になるかもしれません。
      それで仲さんのコメントを読みながら、自分の心に感じたことを書かせていただき、それを返コメにさせていただきます。

      〇万人救済主義を述べておられる方は、(無意識であるかもしれないが)自分を救われている側に置いている。

      「私は救われているから良いが、イエス様を信じていない人は救われないから可哀想」というものです。
      しかしこのように考える人は大きな考え違いをしているのです。
      それは聖書は「自分自身の救いを全うせよ」と教えているのであり、どこにも「あなたはイエスを信じているから大丈夫」などとは書いていないのです。
      自分自身の救いを全うすることに全力投球しているなら、他人の救いの心配をするという余計なお世話をしようとも思わないものです。
      他人様の救いの心配をするというのは、文字通り「小さな親切、大きな迷惑」にほかなりません。
      キリスト教の救いは「自分が救われてこんなに良かった。だからあなたも信じてみない?」というものです。
      自分の救いと人の救いが繋がっているのです。
      それに対して万人救済主義を唱える人々の認識は、自分の救いと他人の救いを対立的に捉えています。

      〇聖書を字句通りに解釈する限り、万人救済主義を受け入れる余地はない。

      様々な方が万人救済主義を述べておられます。
      しかし私に言わせるなら「それがどうかしましたか?」ということになります。
      キリスト教はつまるところ聖書宗教であり、聖書に書かれてあることを信じる信仰です。
      ですから[だれが何を言っているか]などということはまるで関係がないのです。
      問題の核心はいつでも[聖書は何と言っているか]でなければなりません。
      死後の裁きの御座で「あの人が、この人が、このように言っていたので、私は信じました」とイエスに申し上げたところで、返って来る言葉は「わたしの言葉である聖書は何と言っていますか?あなたは人の言葉ではなく聖書の言葉に従うべきだったのです」というものではないでしょうか。

      〇神を信じるということは、自分が分からないことをも含めて委ねるということでなければならない。

      仲さんのコメントを拝見していると、あたかもご自分を神の座において神様の替わりに人々の救いを心配されておられるようです。
      しかし信仰者には「人間には分からないことも沢山ある。しかしイエスの元に帰っていくとき、すべてのことが明らかになる」と告白することも出来ます。
      私は後者の信仰者の告白を選び取るものです。

      ◎カトリック信者の御立場からのコメントを感謝します。
      またコメントしてください。お待ちしています。