恐れから解放されて生きるために

恐れには健全な恐れと病的な恐れがあります。
たとえば目をつぶって歩くと、二・三歩は前に進めますが、それ以上は足がすくんで前に進めなくなります。
これは本来人間が持っている自己保存機能が働いて、足をストップさせるからです。
ここでこの機能が働かず、どんどん前に進んでしまうようだと、事故にあってしまう確率が飛躍的に高まるでしょう。

これに対して病的な恐れと言うものがあります。
何も恐れる必要がないことをわかっているのですが、自分でも説明がつかない内的な恐れというものを持っている場合があります。
日本人は石橋をたたいて渡ると言いますか、とても慎重です。
石橋をたたいても渡らないどころか、石橋をたたいて壊してしまうほどです。
しかしこのような日本人が、いったん思考停止の状態になってしまうと、突然神風飛行隊になってしまいます。

○私たち日本人に必要なのは思考停止に陥らないように警戒しつつ、訳の分らない恐れから解放されて生きていくことです。
では恐れから解放されて生きていくためにはどうしたらよいのでしょうか?

スポンサーリンク

①人の心の奥底には神でなければ埋めることの出来ない「寂しさ(さみしさ)」がある

その寂しさが埋まらない限り、一人ぼっちの孤独感からくる自信のなさが恐れの原因になります。

神様に、私の心のうちに来ていただくことだけが、解決策です。
『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。』〔ゼカリヤ書2:10〕(新改訳聖書)
神が私のうちに、遊びに来てくださるのでもなく、週末の間泊まりに来るのでもありません。
このように間違って理解しているクリスチャンがなんと多いことでしょうか。
それ故、寂寞感(せきばくかん)から来る孤独感に悩んでいる人が多いのです。
そうではなく神様は、あなたの一生の間(そして永遠に)ご一緒に住んでくださるのです。
少しの間一緒にいるだけなら、自分の嫌なところ、悩んでいること、途方にくれていることなどを話してみようとは思わないでしょう。
しかし、一生の間ずっと一緒にいてくださると言うのなら、あなたならどうしますか?
わたしなら腰を落ち着けて、自分の問題について神に向かって語りだすでしょう。

○もちろん家に住んでくださるといっても、目には見えませんから(実際、見えたら大変です)、この地上にいる間は信仰によって歩んでいくのです。

②私たちには傷つけられることへの本能的恐れがある

誰も傷つけられて喜ぶ人はおりません。
しかしその傷つけられることへの恐れが、私たちの心を萎縮させ、行動を制限し、神のみこころ通りの人生を生きるのを阻害することが多いのです。

何のバックもなく、一人ぼっちで仕事をやり遂げることほど、恐れを抱かせることはありません。
フリーランスで生きる人はよくそのように言います。
企業の一員であるとき、自信を持って仕事を成し遂げていくことが出来るものです。
自分の力で物事が進んでいたのではなく、自分の所属する会社の名前で、自分は仕事をしていたに過ぎないことが退職してからはっきり分ったとおっしゃる大企業の社員さんもおられます。

一人であっても自信を持って生きていけと言いますが、それは無理な相談です。
人間は神様を親の七光りとして、神の家族の一員として、神様の名前で仕事をするように備えられているのです。
本当の自分の力、限界、無力さを知っていたら「神様の子供でよかった。これからは神様のご威光を笠に着て仕事をさせてもらう」と言うのです。(ただし、乱用は罰を伴います。)

この傷つけられることへの恐れからの解決策は自分が神の神殿であり、その神殿を傷つけようとする者を、神は滅ぼしてしまわれるのだということをしっかりと知ることです。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、誰かが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。あなたがたがその神殿です。』〔Ⅰコリント3:16〕

○だからあなたはもう恐れる必要はないのです。
自信を持って生きていってよいのです。
あなたがやることが、神の御心であるなら、必ず成功します。
このように自分自身に言い聞かせてあげるのです。
このようにして私たちは傷つけられることへの本能的恐れに縛り付けられることから解放されることが出来ます。

③多くの人の心に病気に対する恐れがある

これは毎年人間ドックにかかっても、医療保険に高額な料金を支払ったとしてもなくなりません。
「いやし」に関して見解が分かれていても、同じです。
というのは奇跡としてのいやしを否定する人の心の中にも、それを信じる人の心にも病気に対する恐れがあるからです。

ある牧師は恐れが病気をつれてくると言い、信者を脅かします。
そしてあまつさえ、この恐れに対して出て行くように悪霊追い出しを行います。
ここまで来ると、霊的戦いならぬ霊的一人相撲もきわまれりといったところです。
では、聖書はなんと言っているでしょうか。

『わたしは主。わたしがあなたをいやす』〔出エジプト15:26〕

確かにここには、主ご自身が、十把一絡げ(じっぱひとからげ)でなく、あなたをいやすと言われているのです。
これが病気に対する恐れから解放される道です。
ありのパパも、このみ言葉をいただいてから、このみ言葉を黙想し続けることによって、病気の恐れから知らず知らずのうちに解放されてしまいました。

健康に生きることだけが、みこころではありません。
病を知らなければ、決して知ることの出来ない心の領域というものが存在します。
病のただ中で、神様と特別な出会いを経験することもあるのです。
ですから病気にならないことが祝福なのではなく、病気への恐れから解放されて生きていくことが祝福なのです。

このような話を聞いたことがあります。
ある牧師婦人が治療不可能な病気に掛かりました。
その時、その婦人は医師に向かって「私は病気になった原因を知ることは出来ません。しかし、私は病気になった目的を知っております」と静かに、しかし確信をもって言われました。
その医師は非常な感動を受けたようで、後に教会に導かれたとのことです。

「生きるにしても死ぬにしても、それはただキリストの栄光のためである。」

④人のいやしのために祈ろうとするとき恐れる

なぜなら、祈ってもいやされなかったらどうしようかと考えるからです。
その結果、舞台の上でいやしの伝道者がいやしの実演をするのを、ただ座って見ているだけの存在に成り果てます。
これでは「いやしの伝道・力の伝道」どころの話ではありません。
神様は私たち一人一人がいやしのために祈る人となることを願っておられます。

どこにそんなことを言っている聖書箇所があるかって?ありますとも。
新約聖書・黙示録の22章2節に『川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実が出来た。またその木の葉は諸国の民をいやした。』とあります。
この川とは、いのちの川のことであり、いのちの木とは私たち一人一人のクリスチャンを指しています。
絶え間なく流れる神様の恵みを頂戴しているなら、確かに私たちはいのちの川から栄養分をいただいているいのちの木です。
そのいのちの木(あなたのことです)から多くの実が結び、その木の葉っぱが人々をいやす薬になったと言うのです。
これは神様とつながった生活を送っていると、その祝福のこぼれが人をいやす働きをするという意味です。

いやしのために祈ると言うと、なにか目をむいて大声で祈るようなことを想像する人がおられます。
そうではなく、落ち着いて、誰にも理解できる短い祈りをいたしましょう。
そのためには、その方々のために普段から祈っていることが大切です。
そうすると、面と向かって祈るとき、その祈りを通して御霊である神が働いてくださり、病をいやすのみか、こころまでも救ってくださるのです。

次の点に注意してください。

第一に、いのちの川の岸辺で自らの信仰生活が営(いとな)まれていること。

これが最も重要です。そうでないと話が始まりません。

第二に、信仰生活のうちに実がなっていること。

これは品性の実であるとも言えますし、果実ということから祝福と捉えても間違いではないと思います。

そうしてやっと第三に、葉が出てきます。

イエスの名によって華々しいいやしの伝道を行った者たちに対して、イエス様は「わたしはお前たちを知らない。不法の者どもよ、ここから(天国)出て行け。」と言われました。
イエス様は、葉だけ茂って実がなっていない木をのろわれたのです。
私たちの信仰生活にも、このようなことがあり得ます。
イエス様に呪われることがないように、恐れおののいて自らの救いを達成しなければなりません。

⑤自分の計画やビジョンが未達成で終わるかも知れないという恐れ

その計画やビジョンが、元気なうちにかなえられるだろうかとの漠然とした不安があります。
若い女性であるなら、幸せな結婚が出来るだろうか。
変な男と一緒になって、失望を感じつつ自分の人生を過ごす羽目になるのではないかと恐れます。
若い男性なら、自分の持っている夢は実現するだろうか。
結局そこいらへんのおっちゃんと同じ結末を迎えてしまうのではないだろうかとの不安を持ちます。
これが私たちを縛る恐れとなります。
では、どうしたらこのような不安から解放されて人生を強く生きていくことが出来るでしょうか。

第一に、あなたの人生は神にささげられているでしょうか?

(注意:カルト化した教会の牧師もこれと同じことを言います。しかし彼らが言っていることは、自分と自分の支配する教会にささげられているかということに過ぎません。)
神はあなたに、神が用意しておられるご計画があることを気づき、理解し、深く納得したうえで、受け取ることを求めておられます。

第二に、その夢やビジョンが神からのものであることが分ったら、次のみことばを知ってください。

『彼はいたんだ葦(あい)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともなく、まことをもって公義(こうぎ)をもたらす。』〔イザヤ42:3〕

いたんだ葦とは私のことであり、くすぶる燈心とはあなたのことです。
神様は私たちを通してご自分のご計画が実現するまでは、この小さな燈心を消すことをなさらないと言うのです。
なかなか実感できないことですが、本当のことです。
神は私たちを大切に思っていてくださり、私たちの傷ついた心や、すぐに揺らいでしまうくすぶる燈心のような信仰であっても、それを用いてくださるのです。

第三に、あなたが与えられた燈心を消してはならないということです。

神様は、くすぶる燈心を守ってくださいますし、サタンも決してこの燈心を消すことが出来ません。
ただあなただけが自分の夢をあきらめるということを通して、燈心を消してしまうことが出来るのです。
ですから、夢がかなえられるまで燈心を消してはなりません。
そうしたら、必ずあなたを通してなされる神のご計画は実現します。
そしてこの地上に、神が公義をもたらしてくださいます。
なぜならあなたのその夢こそ、公義をもたらす神のご計画にほかならないのですから。

◎平安と祝福を祈っています。

スポンサーリンク