自己受容の具体的なやり方はこうやる!

人の話を黙って聞くというテストを始めた方にとっては今日でちょうど一週間になります。
自分が自己受容できているかどうか、三分でわかる方法

人の話を黙って聞くという傾聴の能力は、自己受容と正比例するとも言われています。
ですので理屈で自己受容がどうのこうのというよりは、まずやってみることで自分の自己受容の程度を知ることができます。

さて、今日はその理屈について考えていくことにいたしましょう。

スポンサーリンク

1.受容には自己受容と他者受容がある

他者を受け入れることにフォーカスを当ててしまうと、自分育てがうまくいっていない場合、心理的に様々な問題を生むことになります。
例えば、周りとうまくやるとか、周りに気を使うとか、周りと調子を合わせるとかです。
よく日本人は「みんながいいんなら、わたしはそれでいい」と言います。
しかしこのような人は、(極端なことを言えば)精神疾患手前で日常生活を送っていると言うことが出来るでしょう。
そうならないためには、まずフォーカスを自己受容に当てることです。

2.自己受容とは何か?

もう一人の自分が、即ち自分自身です。
周りの人の中で一番身近にいるのが、この自分自身です。
自己受容とは、この自分自身を受け入れるということです。
受け入れると言っても、どのように受け入れるかが鍵です
この自分と自分自身の関係が、自分と他者の関係に投影するからです。

たとえば自分自身を抑圧して、自分自身の本音を聞こうとしない人は、他者に対しても抑圧的に振るまいます。
そんな馬鹿なと言われるかもしれませんが、実際そうなのです。
自分自身を価値のない存在としている人は、他者に対してもそう振るまいます。

「いや私は自分のことはそう思っているかもしれないが、人様に対しては価値ある存在として接している」と言われますか?
あなたはかつてどなたかに「お前は本当は俺を馬鹿にしているだろう」と言われたことがありませんか?
もしそのような経験がお有りなら、あなたは自分自身を無価値な存在と思っているのです。

ではどのような受け入れていけばよいのでしょうか?
それは「あなたは私の目に高価で尊い」(イザヤ書43:4)とあなたが自分自身に言い続けてあげることによってです。

3.本音と建前を一致させる

どういうことかと言いますと、自分に正直になるということです。
たとえば自分がしている今日のネクタイはとっても自分に似合っていると内心では思っているのに、人に「あら、お似合いね」と言われると、つい「いや~、そんなことないよ」と言ってみたり、「馬子(まご)にも衣装(いしょう)だからな」と答えてしまいます。
そこでカウンセリングの訓練などでは、「そう言われてみると、そんなに似合ってませんね」と応答し、そのときの気持ちを聴きます。
そうすると「むっとした」とか「嫌な感じ」とかの感想が返ってきます。
そこで「ではやはり本音の自分を認めたほうが楽しいし、自然な生き方と言えるのではないでしょうか」と申しますと、たいていの方が同意されます。

スポンサーリンク

4.本音だけで生きるのとは異なる

本音と建前を一致させる生き方と、本音だけで生きる生き方は同じではありません。
本音で生きるとは身勝手ということでもあるのです。

映画の寅さんのような生き方と言えるかもしれませんが、なぜ寅さんの生き方に多くの人があこがれるかと言うと、本音で生きる気軽さ・自由さにあこがれるからです。
しかし映画を最後まで見れば分るように、残念ながらハッピーエンドとはなりません。
それは人間は人間関係の中で生きており、自分の本音を優先させれば、結局その結末は自分に帰ってくるからです。

ではどうしたらよいでしょうか?
「自分」が「自分自身」の良きマネージャーとして、この世と自分自身の調整役として働くのです。
自分の本音と周りの状況をよく勘案し、今の状況で最善の行動は何かを考え、結論が出たら思い切ってそのように生きてみるのです
そうしたら道が開けてまいります。

◎回復と平安を祈っています。

スポンサーリンク

コメント

  1. 岡田 より:

    わたしも、このありのままに自己を受容する
    ということが、よくわかりませんでした、

    自分の ありのままを、本音で生きれば、おっしゃっるように、周囲を 困惑させるでしょう、

    たしかに、寅さんやミスタービーンは素敵な人です…とてもチャーミングです。
    しかし、もし親族であれば、わたしの身が、保ちません(笑)

    「イエス様は、ありのまんまのあなた、そのまんまの、あなたを受容して愛してくだっています」
    そのとおりだと思います
    このメッセージは教会でいったい、何百回、聞いたことでしょう、

    しかし、イエス様のように、なりたいと願っているわたしが、あるいは教会が、他者に対して
    「ありのままでは、困りますよ‥」 そうメッセージを発信しているのではないだろうかと感じたことが、ありました

    わたしたちペンテコステ教会のなかでは積極的な信仰のことば、積極的な祈りは誉められることです。

    しかし、わたしは 長年信仰を持ちながらも、自分の人生に また親族に
    アンラッキーなこと、トラブルがあるたびに、
    弱気になったり 投げやりになったりしてしまいます いまも、その程度のものです。

    そんなとき ペンテコステ的な 「主は 既に 問題を 解決して、くださっています 私は勝利者です アーメン ハレルヤ」と 祈ったとしても 自分の本音は それに同意してはいないのです 正しい祈りなのにです…それは、ありのままを祈っていないからだと思います。

    現時点では、できるだけ、神様に正直に お話しする、そんな祈りを、心がけています。

    途方に暮れたとき、困ったときは
    詩篇の記者のように、
    「どうして 私は不幸なの かと つぶやいたときも わたしは神に信頼して いた
    人を信じることが できないと 嘆いたときも わたしは神に信頼していた
    これからも 信頼し続け ますので よろしくお願いいたします。 こんなふうに 祈っています。
    そして、異言の 祈りは ウソがない 神様との ありのままの 親密な 交わりであると 思います。
    とりとめもない ことを ながながと すいませんでした(〃⌒ー⌒〃)∫゛

  2. arinopapa より:

    岡田さん、こんばんは。
    確かに仰るとおり、建前では「福音はありのままのあなたを受容します。」とメッセージするのですが、問題を持っているというところにとどまらないで、問題を持っていることがはっきりと分る人たちが教会にやってくると、隠された本音がもろにでますね。
    これは教派は関係ないと思います。
    明日のブログに掲載しますが、名古屋一麦教会の牧師さんの、人のありのままを受け入れる愛に満ちた接し方を、私も最近知りました。
    リンクを貼りましたので、どうぞお聞きください。

  3. arinopapa より:

    連続投稿ですいません。
    岡田さんの言う、うそのない祈りが、わたしにとってはむずかしいと感じます。
    建前の実体の伴わない祈りをすると恵まれませんので、なんかおかしいと感じ、偽りを祈っていたことを知ります。
    そうして感情の伴った本音の祈りを再び始めます。普段本音を抑圧して生きていると、本音で祈りをなすと疲れます。
    問題を抱えた人がやってくると、それを嫌うのは同様に疲れるからではないでしょうか。
    私たちは疲れることを異常に嫌がる傾向があると思います。
    しかし自分の抱えていた問題と同じだと、共感が湧き出てきて苦労だと感じないのが不思議です。

  4. 岡田 より:

    そうですか 次の 記事も楽しみに していますね
    いつも 丁寧なアドバイス 感謝します(^-^)/~~