聖霊第三の波運動の「後ろに倒れる」ことについて

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1.後ろに倒れる現象のこと

聖霊第三の波の教会が主催する聖会で、按手を受けた人々が後ろに倒れる現象があります。

①その実態は?

ありのパパが不思議に思い、集会後その倒れた方々にインタビューして回ったことがありました。
ある牧師は「お約束ですから」と答えました。
ある婦人信徒は「いや~、倒れないと悪いかなと思って」と答えました。
唯一「物凄い聖霊の力を体に感じた。」と答えた開拓中の牧師は目が宙を泳いでいました。
最後のケースは何とも言えませんから除くとして、何人に聞いたところで返ってくる答えは同じだと思われます。
この文章を読まれて、ある方々は悪意に満ちていると感じ、またある方々は「そんなもんだろうな」とお思いになられるでしょう。

②問題の核心はどこにあるのか?

問題はこれらの現象が神から出ているかどうかではなく、この現象について聖書は何と言っているかということです。
たとえば異言が聖霊のバプテスマに必ず伴うことは、聖書が確証していることです。

③聖書は何と言っているか?

聖書のどこにも按手された信者が後ろに倒れるように期待するようにとの記述はありません。
では「聖書にはそのような命令はないかもしれないが、聖霊の力を受けて自然にそうなるのだ」という主張はどうでしょうか?
そこで冒頭のインタビューが問題になるのですが、自然にそうなると言っても多くの牧師や信徒がそうすることが義務であると感じて演じている現実を前にしては、そのような主張は到底受け入れることができません。

2.なぜこのようことが行われるようになったのか?

ありのパパは、以下のように考えます。

①聖霊のバプテスマに伴う印である異言を認めないので、ほかに印が必要だった

そんな時たまたま後ろに倒れる信徒がいたことをきっかけに後ろに倒れることに対する共通の認識が拡がっていった。

②万能感が満たされる

「俺って、すごい!」「俺って、グレート!」
これは麻薬です。キリストとの親しい交わりだけが満たすべき心を、現象に対する喜びで満たすことは本質的には偶像礼拝に等しい行為です。
これらの教会から不品行・姦淫・レイプ・人権の侵害などが起きたのは必然だったのかもしれません。

3.ではどうしたらよいのか?

①後ろに倒れることをショーのように行うのをやめる

また無批判にそのような大会に信徒を参加させていた教会にも反省と悔い改めが必要でしょう。

②実証済みの聖書の道に戻る

個人の祈りのとき、ディボーション用の小冊子を捨て、聖書のみを読み、聖書から教えられたことをノートに書き、祈りましょう。
同じ個所を再び読んだとき、以前記したノートを見て神様がいかに成長させてくださったかに驚嘆するでしょう。

③異言で祈る

そしてどうにもならない問題、心を打ちのめしどのように祈ったら良いかさえ分からない問題のため、心をしずめて異言で祈りましょう。
そのとき言い難きうめきをもって内にいます御霊が、どのように祈ったら良いか分からない私たちに代わって祈ってくださいます。
そのとき心に平安が与えられ、不思議な力が自分を覆っていることに気づくでしょう。

◎平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさんこんばんは。
    最近のカリスマ集会の話を聞くと、本当に聖書やキリスト教の信仰とは無関係(み思える)「現象」とか「奇跡」がたくさんあるように思えます。
    今回、パパさんが具体例をあげた「後ろに倒れる」という現象ですが、YOU-TUBEで「韓国キリスト教」で検索して出てくる画像の中に、まさにそれを写したものがあるのですが、信徒が列をつくって並んでいて、牧師がその前を通ると、通り過ぎた端から、バタバタと将棋倒しのように倒れていくんですね。でも、注意して見ていると、倒れようかな、どうしようかな、と一瞬迷ってから、自分の隣の人も倒れているから自分も倒れよう、って感じで倒れる人や、よっこらしょって感じで座るようにして倒れる人などがいて、ある意味大変に興味深い画像です。ありのパパさんの文章を読んで、やっぱり、そういう部分はあるんだ、ということが分かって少々安心しました。こんな風に見ている自分は偏見とか色メガネで見ているから、そう見えるのかなあ、って少々思っていたものですから・・・。
    あと、金粉が出てきたとか、虫歯に金の詰め物が入ったとか、いったいこりゃ何だ、って思えるような「奇跡」が大々的にもてはやれるのは、やっぱり何かが変だと思います。そのような中で、カリスマ派に近いペンテコステ派の立場であられるありのパパさんの冷静な分析を読むと、少しホッとしました。やはり、何でも無条件に受け入れるのではなくて、何が聖書的で何がそうでないかを見極める「目」は信仰者にとって絶対に必要なことだと思います。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんにちは。
    ペンテコステ運動の影響を受けて、リベラル派教会内で起きた聖霊運動がカリスマ運動であり、福音派教会内で起きた聖霊運動が聖霊第三の波です。
    私が見るところ、カリスマ運動は(福音主義キリスト教から見ると)、論理が飛躍しているように感じるところがあるのですが、今に至るまで脱線も行き過ぎもないようです。
    聖霊第三の波の方は、身内であることもあって、考え方に違和感はなかったのですが、ご存じのように今やスキャンダルまみれであり、脱線と行き過ぎが公然と行われております。
    カリスマ運動は脱線せず、聖霊第三の波は脱線してしまった理由を考えてみますと、神学の有無と教団制度の有無が分水嶺になったと思われます。
    この点について(特に日本基督教団内の聖霊刷新協議会について)ご意見をお聞かせ願えれば幸いです。
    よろしくお願いいたします。

    追記:今から書きますことはいつかブログでも書こうと思っていることです。
    カルト化した教会の献身者で、脱会後精神に不調をきたし、一般社会で暮らすことが出来なくなった方がおられます。
    その方は山野のどや街に身を潜めて何年間も暮らしたそうです。
    そして今、「一般社会に出て行こうかな」と考えるところまで回復なさったようです。
    私はこれを2ch.で知りました。
    また身近にカルト化した教会で献身者として生活し、空いた時間にアルバイトをしていた青年を存じ上げておりました。
    この方も脱会されました。
    それでも問題の全体像がつかめなかった、ありのパパのふがいなさを今は本当に申し訳なく感じております。
    青年たちに希望と喜びを約束するのがキリスト教であるのに、かえってその方々の精神を破壊し、精神疾患にさせてしまうのを手をこまねいていたことを悔いております。
    これがこのブログをはじめた直接のきっかけです。
    二度と同じ失敗を繰り返さないためにはどうしたらよいかを考えていきたいと思っています。

  3. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさんこんにちは。
    「カリスマ運動」と「聖霊第三の波」には厳密な区別があるのですね。
    教えていただいてありがとうございました。
    日本基督教団の聖霊刷新協議会については、色々な意見があると思うのですが、もともと日本基督教団自体が、良く言えば包容力がある、悪く言えば何でもOKという性格というか体質を持っているので、例えば、聖霊刷新協議会の中心人物である手束先生や高砂教会が、教団内で特にあれこれ言われることはないようです。手束先生は、このカリスマ運動によって、教派を超えた連帯を目指す、エキュメニカル運動の一環というような考えもあるということを聞いたことがあります。手束先生はもともとティリッヒの研究家であるとのことなのですが、ティリッヒの神学とカリスマ運動がどのように結びつくのか、不勉強の私には良くわかりません。手元にあるティリッヒの組織神学第三巻(聖霊論)を読もうとしたことがありますが、難しすぎて手も足も出ませんでした(笑)。
    最近はペンテコステ派の中からも、しっかりとした神学者が輩出されているようで、例えば藤林イザヤ先生とか、大川修平先生の書かれたものを読むと大変勉強になります。
    聖霊第三の波の方々も、ペンテコステ神学、聖霊の神学をよく学ばれて、自分たちの信仰運動のあり方を客観的に見直されれば、きっと良い方向に向かうのではないかと思います。

  4. ありのパパ より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    土曜日と言うことで明日の準備が色々とおありだと思いますのに、恐れ入ります。
    福音派の中で聖霊第三の波に乗った教会は伝統的に神学を軽視する傾向があったと思います。
    単純・素朴の信仰を厳密な思考で支えることが神学の目的ですから、その神学がなければ単純・素朴の信仰が独裁・抑圧の信仰に変質するのに時間は掛からなかったと言うことだと思います。
    福音派全体が神学を軽視する傾向が強いということも言えると思います。
    「神学とかは、わからな~い。」と言われてしまうことがあります。
    聖霊刷新協議会のこと、教えていただいてありがとうございました。
    では良い日曜日をお過ごしください。

  5. コル より:

    こんばんは。はじめまして。コルです。興味深く読ませていただき感謝します。二点申し上げます。
    一点目、倒れることについてです。神によって、後ろに倒れる現象についてはヨハネ18章6節、黙示1章17節、使徒9 章4節に聖書的根拠があります。この体験を、万人に適用はもちろんできませんが、否定はできません。やめさせる必要はないと思います。神からでていないのなら自然にやむでしょう。手を組んで祈る、十字の印を切る、目をつぶって祈る・・どこに聖書的根拠がありますか? 書いてなくても多くのキリスト者は実行しています。まして上記の根拠があるのです。按手がなくても倒れるケースはベニーヒンやフレーソンで知られています。
    次に、聖霊のバプティスマについてです。私も異言がともなう聖霊のバプティスマを経験いたしました。しかし体験は人それぞれであり、教理として「聖霊のバプティスマのしるしは異言がともなう」と文面化するのは危険だと思います。むしろロイドジョンズ氏「栄えに満ちた喜びP277」のように多くの人々の体験に基づいて、「聖霊のバプティスマ」のあらわれを限定しないほうがよろしいかと考えています。2点とも神の働きは限定できないということで共通しております。如何でしょうか?

  6. arinopapa より:

    コルさん。こんばんは。コメントありがとうございます。
    管理人のありのパパです。
    早速、神学的な質問をしてくださり、感謝をいたします。
    ご質問にありのパパが答えます前に、コルさんにお願いがございます。
    このブログではコメントされる皆さんが、ご自分が所属なさる教派、背景にある神学を明らかにされてコメントしてくださっています。是非そのようにお願いいたします。
    これによって無用な混乱・感情的な行き違いを未然に防ぐことが出来ると考えております。
    よろしくお願いいたします

  7. arinopapa より:

    ありのパパがコルさんにお答えいたします。

    第一の質問
    >倒れることについてです。神によって、後ろに倒れる現象についてはヨハネ18章6節、黙示1章17節、使徒9 章4節に聖書的根拠があります。この体験を、万人に適用はもちろんできませんが、否定はできません。やめさせる必要はないと思います。神からでていないのなら自然にやむでしょう。手を組んで祈る、十字の印を切る、目をつぶって祈る・・どこに聖書的根拠がありますか? 書いてなくても多くのキリスト者は実行しています。まして上記の根拠があるのです。按手がなくても倒れるケースはベニーヒンやフレーソンで知られています。(引用ここまで)

    〇引用しておられる聖書箇所はそのどれもが、今問題にしている「按手されたとき後ろに倒れる」ことについて全く述べておりません。
    ヨハネ伝の箇所は権威に圧倒されて尻餅をついたのであり、黙示録の箇所は栄光のキリストを見たことによって死人のようになったのであり、使徒の働きの箇所は反対者サウロにキリストが顕現された箇所です。
    そのどれもが①按手されたとき②神に触れられて③後ろに倒れたという三つの要件を満たしていないのです。
    ですからこの聖書箇所をコルさんがおっしゃるように理解することは決してしてはならないことです。

    〇やめさせる必要はないとのご意見ですが、そのようには思いません。
    なぜなら聖書には間違った教えから教会を守れとあるからです。
    「神から出ていないのなら自然にやむでしょう。」いいえ、決して自然にやむことはありえません。もしそうならこの地上には何の問題もなかったでしょう。

    ○後ろに倒れることと、手を組んで祈るなどの単なる習慣を同列においておられることに驚きを禁じえません。
    手を組んで祈ることなどの習慣は敬虔の心情を行動に表すものであり、なんら問題はありません。
    後ろに倒れることは、様々な問題を教会に引き起こしています。
    倒れることに何の意味もないのに信者が暗黙の共通認識として倒れることを演じているのです。
    そんなことをしている場合ではなく、神の御言葉を学び、御言葉に応答し、みことばを実践することこそ、大切なことです。
    そのようなキリスト教本来の特質がどんどん失われ、ありもしない共同幻想の中に理性を麻痺させていっているのです。
    これからは確かにコルさんがおっしゃるように「後ろに倒れまショー」はだんだんと廃れていくものと予測しています。

    第二の質問
    >聖霊のバプティスマについてです。私も異言がともなう聖霊のバプティスマを経験いたしました。しかし体験は人それぞれであり、教理として「聖霊のバプティスマのしるしは異言がともなう」と文面化するのは危険だと思います。むしろロイドジョンズ氏「栄えに満ちた喜びP277」のように多くの人々の体験に基づいて、「聖霊のバプティスマ」のあらわれを限定しないほうがよろしいかと考えています。2点とも神の働きは限定できないということで共通しております。如何でしょうか?(引用ここまで)

    コルさんのおっしゃるように体験は人それぞれなのです。
    問題は人それぞれの体験ではありません。
    聖書がなんといっているかなのです。
    聖書に聖霊のパプテスマには必ず異言が伴うと明確に記されているから、教理化しなければならないのです。
    そしてそのことによって本当に多くの方々が、神さまとの暖かな人格的交わりに入れられました。(もちろん多くの問題を起こしたことも認めます。)
    教理化する場合、多くの人々の体験にのみ基づくとロイド・ジョンズ氏の間違いに陥ります。
    あくまでも聖書から出発し、そして多くの人々の体験から教理化の裏づけをとっていくという態度が必要だと考えます。
    そうしないとあやふやな人々の体験によって聖書解釈が決まってしまうという誤りに陥ります。

    まとめ
    神の働きを限定する必要はないし、またそんなことはやろうと思っても出来ることではありません。
    しかし聖霊である神は異邦人と交わることを禁じる律法を無効とするために、幻を持ってペテロを導かれました。
    そして困難ではありましたが、ペテロは神の御心を正しく受け取ることが出来、みこころのとおりに行動することが出来ました。
    神は私たちにも同じように、この時代にあってご自身のみこころを正しく受けとってほしいと願われているのです。
    「後ろに倒れること」「聖霊のバプテスマに必ず伴う異言の賜物」についての、みこころも正しく受け取ってほしいと願われておられます
    そしてそのみこころは聖書に明確に記されております(人間の側の都合や誤ったバランス感覚によっても決して否定できないほど明確に)。
    あとは一人一人にゆだねられております。

    以上です。コルさん、またのコメントをお待ちしています。

  8. コル より:

    ありのパパ さん、ご丁寧なお返事ありがとうございました。理路整然とお答え下さり、私も教えられることがありました。
     私の所属はペンテコステ派です。30年近く前、聖霊のバプティスマを受けました。それ以来、異言で祈っております。救われた教会は異言を否定する福音派です。神学はわかりませんが、紆余曲折をたどり現在に至っております。よろしくお願いします。
     さて、第1の質問では確かに、「単なる習慣」とこの現象を同列において述べた点、私に飛躍と論の甘さがありました。お恥ずかしい限りです。また「神の御言葉を学び、御言葉に応答し、みことばを実践することこそ、大切なこと、」まさにアーメンだと思います。 私も聖会で多くの「ショー」的なもの、神の力のみせかけ、やらせを実際見たり聞いたりしたことがありました。「倒れなさい」と言われたり、無理矢理おされて倒されたりしたこともあります。ですから長くこの現象については懐疑的でした。
     ところが、今は、臨在の主にふれられて倒れる、神の力が解放されて倒れるということはあるのだと確信しております。それは何度も私自身が冷静の状態の中で体験したり、見たりしてきた結果からの結論です。だからこそコメントさせていただこうと思った次第です。
    私が引用した3カ所は、ありのパパ さんがご指摘なように「①按手されたとき②神に触れられて③後ろに倒れたという三つの要件を満たしていない」・・・おっしゃる通りです。しかし、はたしてそれらの箇所は「神の力によって倒れたと理解してはならない」と結論づけることができるでしょうか?確かに「神の力によって」は書いてありません。
    「権威に圧倒されて尻餅をついた」「栄光のキリストを見たことによって死人のようになった」「キリストが顕現された」とありのパパ さんは述べています。倒れたの原語は3カ所ともにピプトーという「倒れる」が使われており、「権威に圧倒され尻餅をついた」はありませんし、「死人のように」は別の単語オース、ネクロスが近くで表現しています。つまり、なぜ倒れたかは人の解釈によっていると思うのです。
    私は倒れることが重要だとは思いません。しかし、人知を越える体験は確かにあると思うのです。それに振り回される必要はありませんが、完全否定や「やめさせる」ことにより本当の神の力の現れを否定したり制限することはよくないと思うのです。(みせかけやにせものはその限りではありませんが)
    2番目の質問についてはありのパパ さんの主張、説はよく理解できますので反論は差し控えます。長く書き込み申し訳ありません。

  9. arinopapa より:

    コルさん、こんばんは。
    コルさんは誠実な方ですね。文章から人柄が伝わってきました。
    さて、コメントの内容、まだ一読したのみですが、本当に神の力に倒れる方がおられるのだということがよく分りました。ありがとうございました。
    わたしが「やめなければなりません。」と申し上げたのは、「後ろに倒れまショー」に対してのみです。
    やはりこれは聖霊のバプテスマに伴う異言の代わりとしての印ではないか思っています(神がではなく、人が勝手にかわりにしているだけ)。
    大きな聖会で異言と言う印の代わりに後ろに倒れることが利用され、信者は人が後ろに倒れるのを観客席からうつろな眼で傍観するのみ。
    これはキリスト教ではありません。
    後ろに倒れることが聖書にあるかどうかではなく、後ろに倒れることを期待するようにとの神の命令はあるかどうか、という点だけを問題にしております。
    そうすると答えは明らかであろうと思います。
    しかしそれとともに小さな神の真実をも大切にしなければならないと考えます。
    第二の点ですが、私は福音派出身です。
    そしてペンテコステ派の神学者のきわめて論理的・聖書的な文章を読んで、異言を伴う聖霊のバプテスマの教理を聖書に忠実な教えであると認めざるを得ませんでした。
    そこに来るまでに35年間掛かりました。
    多くの方々に、このような霊的な旅を味わせたくないのです。
    もしはっきりと聖書から論じることがペンテコステ派にもっと早くからあったならと思われてなりません。
    「はじめにのどが渇いた者が井戸を掘る。」のことわざどおり、それをさせていただきたいと願っております。

    コルさん、またコメントしてください。よろしくお願いします。