神学は単純・素朴の聖書信仰を支えるためにある

至極当たり前のように「神学的違いを超えて」と言われることがあります。
はたしてこれは良いことでしょうか。
今日はこの問題を考えます。

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1.神学的違いを越えることは良いことか?

ありのパパが神学校で最初に教えられたのが次の言葉でした。

「そもそも神学とは、単純素朴の信仰を厳密な思考によって支えることにある」

神学の目的が単純素朴の信仰、すなわち聖書の信仰を支えることにあるなら、神学的相違を超えることは、自殺行為となります。

2.神学の最も重要な基礎は聖書論にある

①聖書信仰の根幹は『聖書は誤りなき神の言葉』という理解

リベラル派の方々は「そんなに違わない」とか「違いを強調してはならない」と仰います。
しかし話はそんなに簡単ではありません。
聖書論で一致できるなら、あとは枝葉の問題です。

福音主義神学は聖書と自分が持っている信仰との間に齟齬(そご)がないことに最大の注意をはらいます。
これに対してリベラル派神学は自分の信仰と異なる部分は「それは聖書が間違っている」ということができます。
これは一見合理的ではありますが、論理的にも、霊的にも、歴史的に見ても大変危険なことです。

何より自分たちの理解を聖書の上に置いていることになります。
自分たちの理解を聖書の上に置くということは、カトリック教会が教会会議の決定を聖書の上に置いているのと同じことです。

人間は聖書より賢いのでしょうか?
いいえ、決してそんなことはありません。

②「聖書は誤りなき神の言葉」と「聖書は誤りもある神の言葉」はどんな違いをもたらすか?

リベラル派神学も聖書を神の言葉と信じると言いますが、その実態は大分違います。
福音主義神学において「聖書は神の言葉」というとき、この私が従わなければならない存在であるという前提があります。
しかしリベラル派神学はこの前提無しに、この聖書の部分は私にとってどういう意味があるかを問うのです。

御言葉を畏れ、権威を認め、御言葉の真意を確かめ、ではこの私はどうしたら良いだろうかと自らに問うのではなく、聖書と自分を対等におき、この私が教えられることはどんなことだろうかと聖書に問うのです。

これは聖書と信仰に対する根本的な否定につながるのではないでしょうか?
リベラル派教会の主張を聞いていると、教えを構築するために自分にとって都合の良い部分を聖書から抜き出して引用しているように感じる理由はこのためであると思います。

3.聖書観で一致することが生命的に重要

次のようなことが言えると考えます。
聖書解釈の違いから生じる差異についてならいくらでも議論可能。
しかしその異なる意見が異なる聖書観に基づいている場合は、まずその聖書観について議論をする必要があります。
そうしたとき初めて、お互いはキリスト教を名乗りながら、なぜこんなにも違うのかの理由に納得がいき、無駄な時間を議論に費やすことや感情的な行き違いがなくなるでしょう。

◎平安と祝福を祈っています。