教会の外なる敵と内なる敵(その2)

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1.【武士道精神・律法主義】

(神の義《公義》よりも己が義を主張する。)

①武士道精神というと何か良いもののように考えますが、実はそうではない

武士道というと腹切り・切腹ですが、これの言わんとしている事は結局、「私は正しい。それなのに誰もわかってくれない。腹が立つので腹を切る」ということです。

海外の方がよく言われることに「日本人の議論は議論でない。自分たちの考える議論は意見を戦わせることだが、日本人の議論は真剣勝負(果し合い・決闘)という感じがする」というのがあります。
言われて気づいたのですが、私にもその気があります。
普段は議論をするのが苦手なのです。しかしいざ議論を始めてしまうと人が変わったように真剣になってしまいます。
これは心の奥底で「自分は絶対正しい。こんな正しい自分を否定するやつは赦せない。」と思い込んでいるからです。
だから普段は涼しいそうな顔をしているが、いったん議論が始まると人が変わったようになり、自分の意見が受け入れられないと自分の存在が否定されたと勘違いし、自爆するのです。
この自爆というのが腹切りであり、「問答無用!」と言って相手を暗殺した軍部のクーデター(2.26事件)なのです。

②この精神は日本人が信仰を受け入れても付きまとう

「名前を変えてお店に出ています。」ではありませんが、もう信じたからとか、新しく生まれ変わったからとか能天気なことを言っていると、まんまとやられてしまいます。
それが律法主義です。

③律法主義の本質とは何か?

それは「神様はわたしのことを良くご存知かもしれない。しかし私のことを一番良く知っているのはこの私なのです。だ・か・ら、神様は私の言うことを聞いてほしい。(もっと正確に言うと神様は私に従って欲しい)」というものです。
教会の中でも、何もないときは和気あいあいとしているのですが、いったん何かあると途端に大騒ぎになって角(つの)をつつきあうのはこのためです。

④福音派と聖霊の働き

福音派の方々があんなにも聖書にも教理にも厳しいのに、聖霊の自由なお働きに心を開くことが出来ない理由も案外こんなところにあるのかもしれません。
聖霊のバプテスマには必ず異言が伴うことを、聖書は明らかに記しているにもかかわらず、様々なこじつけを用いて実質的にそれを否定します。

⑤「悔い改めて、信じる信仰」とは「私が正しい!」と言うのをやめること

「私が正しい」と言うのをやめ続けるのが悔い改めの伴った信仰です。
但し、これは神と人との関係においてのみ言えることです。
マインド・コントロール牧師が信徒に対して、「私が正しいと言ってはならない」と強制するのは犯罪です。

2.【神道原理主義・主観主義】

(キリスト以外のもので心を満たそうとする。)
さて三番目に控え、またもっとも強力な敵は何でしょうか。

①それは偶像礼拝

人が何を拝もうがそれはその人の勝手であり、他人がとかやく言うことではありません。
これが信教の自由ということです。キリスト者は命がけで自分と他者の信教の自由を守る戦いをしなければなりません。

②特定の宗教団体が国家と結びついて礼拝行為を強制することを原理主義という

日本においては靖国神社が、厚生官僚と結びついて、わが国を神道原理主義国家にしようとしています。
原理主義の特徴は以前に述べましたように、

a.特定の宗教団体による国家経営 

b.熱狂的な政治的関心によるマインド・コントロール 

c.従わない者に対する容赦ない弾圧

③歴史の中で原理主義は繰り返し表れて人々を苦しめ国家を疲弊させました

わたしたちは目を覚まして、祈らなければなりません。

④偶像礼拝の本質は何か?なぜ偶像礼拝をしてはならないのか?

こういうこともたまには考えてみるのも良いと思います。
ただ「聖書にそうあるから」と言うのもいいのですが、本質を見抜くと応用が利くようになります。
偶像礼拝とは、心の奥底にあるすきまをキリスト以外のもので満たそうとすることです。

⑤印としての異言の存在

神様と言っても目に見えないので、父である神様は御子であるイエス様を送ってくださり、神の本質を見せてくださいました。
そのイエス様が復活後、天に昇られて、この世が終わるとき天から再び来られます。(これを再臨と言います。)
その間、イエス様を信じる者たちはどうしたらよいかと言いますと、イエス様が送ってくださった別の助け主とともに地上生涯を歩んでいくのです。
この助け主を聖霊である神様と言います。
もちろん聖霊様も目に見えませんので、弱い存在である私たちには何か印が必要です。
その印が異言です。
異言で祈ると心が温かくなり神様が私とともにいてくださるのがよく分ります。

⑥偶像としての不思議と奇蹟といやし

しかし異言だけでは満足できない人々がいます。
そのような人々は聖書が禁じている聖書の私的解釈を行い、自分の好きなように教理を作り上げます。
これを主観主義と呼びます。
昔は熱狂主義と呼んだのですが、ことの本質を考えると思い込み主義とも言うべきものなので、ありのパパが主観主義と名づけました。
頭に手を置いて祈ると後ろに倒れることがショーのように行われたり、預言者運動が行われたり、地域を支配する霊を打ち破る戦いが強調されたりします。
心の空虚感を何とかして満たしたいのです。

⑦熱狂主義と偶像礼拝は姉妹の関係にある

未信者のときは宗教原理主義で心を満たそうとし、クリスチャンになった後は巧妙にキリスト以外のもので心を満たすように誘われます。
これらの本質は皆、偶像礼拝です。
ペンテコステ派のクリスチャンは、異言をもちいての神様との温かい人格的交わりから離れることがないように警戒しなければなりません。

◎神様との人格的交わりから離れて、目に見えるもので神を求める心を満たそうとするなら、その人生の終わりには悲惨な結末が待ち受けていると言わなければなりません。

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