日本基督教団のこと。教会の悔い改めなしにリバイバルは起きない

日本基督教団成立の歴史的背景を説明します。
背景を理解することによって、教会の悔い改めなしにはリバイバル(信仰復興)はないということが、私たちの共通理解になるように願っています。

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1.日本基督教団は異教徒である神道原理主義者によって統合された教団

①キリストのものである教会が異教徒によって統合された

これは忌むべき以外のなにものでもありません。
教団成立後も数々の罪を神と人々と周辺国に犯しました。
教会では天皇の写真を貼り、その写真に向かって礼拝を行いました。
また韓国で命がけの神社参拝反対を行っている教会に出かけていって、神社参拝は偶像礼拝ではないと全くの虚言を述べました。

②ホーリネス弾圧のこと

ホーリネス教会弾圧のときも政府の側に立ち、キリストにある兄弟を裏切りました。
このように日本基督教団は、異教徒によって結成せられ、その目的は神を裏切り、教会を裏切り、人々を苦しめることにありました。
このことを考えるとき日本基督教団結成にはサタンの意図が働いていたのではないかと、ありのパパは個人的には考えています。

③戦後の日本基督教団

戦争が終わっても日本基督教団は解体されることはありませんでした。
戦争が終わったとき、普通の神経の持ち主なら、このような汚れた出自を持つ教団ですから、解体しようと考えると思うのですが、そうはなりませんでした。

理由としては内部的理由はともかく、外部的理由はありのパパには良く分りません。
よくアメリカ占領軍が(GHQ)その存続を許したものだと思います。
ほかにやることが多くそこまで手が回らなかったのか、アメリカのキリスト教会の圧力があったのか、よくわかりません。

存続した内部的理由としては

a.アメリカの教会からの援助物資である「ララ物資」が欲しかった。

b.教派としてのアイデンティティーよりも各派共通のリベラル派の信仰が新たな一致点となった。

c.何でも神のお導きにしてしまう日本人的意識が働き「こうして一つとなったのも何かのお導き」と考えた。

などが挙げられるでしょう。

2.国内外の教会の状況

①中国の教会

中国の教会が、三自愛国教会(中国版の日本基督教団)への参加を強制されたとき、多くの福音主義キリスト者が命がけでこれを拒絶し、多くの牧師が強制収容所に何十年にもわたって入れられました。

そして残された信徒たちは「家の教会」を組織して、文化大革命の嵐を耐え抜いたのでした。
これが現在の中国・家の教会の大リバイバルにつながっていると言われます。

②日本の教会

これに比べて日本の教会の対応は目をおおうようなものでした。
政府の言うことに唯々諾々として従い、礼拝では天皇礼拝(宮城遥拝)をしました。
これはまぎれもなく偶像礼拝そのものです。
ホーリネス教会が弾圧されて、牧師が一斉検挙されたときも政府の側に立ち、わけの分らぬたわごとを抜かしました。
いわくほとんどの教会は再臨など信じていないとか、ホーリネス教会がいかにおかしい教会であるかを政府の側に立って力説したのでした。
そしてホーリネス教会の教職は戦争が終わるまで獄屋に留め置かれました。
日本基督教団の牧師たちは、同僚の牧師が信仰のゆえに刑務所に入れられているのに、なんとも思わずに通常の生活を送っていたのです。

3.近年の日本基督教団の教勢の不振のこと

①無牧(教会に牧師がいないこと)の教会の増加

ありのパパに言わせれば、それは当たり前だと思います。
人間ですから罪を犯します。
そうしたら気づきを得て、悔い改めに進まねばなりません。
そして原状の回復が可能であるときは、原状を回復せねばなりません。
即ち戦争が終わったとき、日本基督教団は自主的に解体し、もといた教団に戻るべきでした。
それをせずに、福音を宣べ伝えても、人々の心に響くことはありません。

②熱心な社会活動の動機は何か?

日本基督教団が生まれ変わったので社会活動に熱心になったのでしょうか?
それともやはり本質は少しも変わらず、戦前・戦中に政府の犬として忠実に振舞ったように別の意図があってそうしているのでしょうか?
ありのパパは陰謀論に組するものではありませんから、本当のところはわからないと言うほかはありません。
日本基督教団は戦前は政府の犬のように忠実に振舞い、戦後は一転して社会的活動に熱心に取り組むようになりました。
ぶれが大きすぎます。これがありのパパのリベラル派教会への警戒感につながっています。
神の言葉を畏(おそ)れる意識の欠如が何でもありの教会となってしまう真の原因ではないでしょうか。

③日本基督教団が戦中に犯した罪の謝罪について

戦後少し経ったときに戦争協力を行ったことへの謝罪文を発表し、戦後大分経ったときにホーリネス教会の教職への謝罪が行われました(しかし、この時点では既に、弾圧のため獄屋につながれたホーリネスの教職はほとんどが天に召されていました)。

しかし肝心要(かんじんかなめ)の偶像礼拝を行った罪、異教徒の言うなりになって、キリストが頭である教会を汚してしまったことへの謝罪は今にいたるまで見ることが出来ません。
なぜでしょうか。この罪を悔い改めるなら、教団を解体しなければならなくなることを分っているからです。
根本的な罪を棚上げにして、矮小の罪だけを謝罪しても、それを本物の悔い改めとして受け取ることは出来ません。

④神に従う意志はあるか?

もし日本基督教団が本当に伝道云々をいうのであれば、悔い改めて、そして原状を回復することです。
多分彼らはそんな度胸も熱情も聖書理解も持ち合わせていないと思います。
あと20年たったら、空っぽの教会ばかり、牧師のいない教会ばかり、高齢で礼拝に出席できない信徒ばかりの教会になってしまうでしょう。
しかしそうならない道があります。
悔い改めとそれに沿った行動です。

◎平安と祝福を祈っています。

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“日本基督教団のこと。教会の悔い改めなしにリバイバルは起きない” への4件の返信

  1. 私は福音派で人生の大半を過ごした者ですが、故あって転会した教会が不思議にも日本基督教団の教会でした。
    まさかファンダメンタルな自分が日本基督教団行くとは思っていませんでした。
    そこで多くのことを知ったのですが、パパさんも含めて福音派の方々はあまり知らずに批判されているように思います。
    具体的に弁明や論争するつもりはございませんが、偏見にとらわれない様にお願いする次第です。
    よろしくお願い申し上げます。

  2. こんばんは、スージョウさん。
    コメントをありがとうこざいます。

    通常なら、このようなたぐいのコメントは承認しません。
    しかしながら、自己紹介をしてくださいましたので(非公開を希望されておられますので自己紹介の部分は掲載していません)、あえて掲載することにいたしました。

    私がスージョウさんのコメントに感じる問題点は以下のとおりです。
    「あまり知らずに批判されている」と書かれていますが、具体的にどの点が理解不足なのかを明らかにしておられません。
    また「偏見にとらわれないように」と言いつつ、どの点が偏見に当たるのかを全く言及されておらず、それにもかかわらず「具体的な弁明をするつもりはない」と言われます。
    これでは議論は成立しません。

    なぜスージョウさんはコメントを書かれたのでしょうか?
    ご自分の言いたいことを言って、うっぷんを晴らすためでしょうか?
    それはキリスト者のあるべき態度ではないでしょう。
    自分の意見を相手に一方的に押し付けて、それでよしとする態度は聖書の思想とは相反するものです。
    どうぞ、ご自身がどのような対応をすることが神の意志にかなったことなのかを今一度お考えになられますように。

    平安と祝福を祈っています。

  3. 中途半端だったかもしれませんね。ごめんなさい。
    古い記事にコメントしたのが良くなかったかもしれませんが、伝えたかったのは、他者を批判する際は対象をよく知って慎重にして欲しいという事でした。
    しかし、ご気分を害してしまったようですいません。

    自己紹介で書いたように私はいくつかの教会に所属しましたが、いずれも他所を批判するとき、あんまり知らずに批判してるんですよね。
    具体的な弁明や議論をしないとしたのは、誤解を招いたようですが経験的に議論して良い結果になったことがあまり無いのでちょっと振り返っていただくきっかけになればと思ったのですが、おこがましかったかのかと思います。

    ご指摘により、具体的に一点だけ説明しますね。
    日本基督教団はリベラルとか社会派というレッテルがあると思いますがご承知のように教会により千差万別で、ざっくり半数は福音主義の教会です(私は入って見て初めてそれを知りました)。
    そして、教勢が落ちてるのは伝道しない社会派の教会が当然ながら衰退してるのが大きな要因かと思います。
    まぁ、でもパパさんはそういう事もご存知であるのに、私が「あまり知らず」にと不用意に書いた時点で私は自ら過ちを犯したのかもしれませんね。
    何れにせよ、失礼しました。

  4. おはようございます、スージョウさん。
    コメントをありがとうこざいます。

    気分を概してはおりませんので、ご安心ください。
    ただ、このたぐいの「なぜ、そう考えるのか」を明らかにしないで、ご自分の感情を一方的に押し付けるだけのクリスチャンからのコメントが多いので、「あぁ、またか」という暗澹(あんたん)たる思いを持ったのは事実です。

    日本基督教団の人々は戦時中に自分たちが犯した罪を背負っていく必要があります。
    それは「あったことを無かったことには出来ない」からです。
    この歴史の事実に目をつぶりつつ、どうして「偏見にとらわれずに」などと仰ることができるのでしょうか?
    キリスト者として神の前でも人の前でも、ただしく、公正な判断をしていただきたいと願っています。

    またコメントしてください。お待ちしています。

どうぞコメントをお残しください。初めてコメントなさる方は必ず自己紹介をお願いします。自己紹介のないコメントを承認することはありません。詳しくはメニューの「コメントしてくださる方へ」をご覧ください。