「悔い改めて、信じる」とはどういうことか?

ありのパパの青年時代には多くの伝道集会が開かれました。

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①大伝道集会の問題点

伝道大会はすばらしいものにはちがいなかったのですが、出席するたびに違和感を覚えました。
それはどの講師も悔い改めを言わずに、信じるだけで救われると言うからです。
「そんなバカな!」というのが正直な感想でしたが、時間的制約があるので、あとは参加した教会でやってくれということなのだと理解していました。
また自分の所属する教団が主催者リストに載っているということは、その方針を許容しているということですので、まぁ若造が文句を言うこともないかと考え、黙っていました。
しかし決心の祈りをした人に「あなたは救われました!」と宣言しているのを見ると、複雑な心境でした。

旧約聖書のエゼキエル33:12に
「たとい正しい生き方をしている人であっても、罪を犯せばその人はほろんでしまう。
またたとい罪を犯している者であっても、その罪を悔い改めれば、その罪のために滅びることはない」(現代訳聖書)とあります。
ですから悔い改めることは、してもしなくても良いことではありません。

②神は悔い改めることを願っておられる

正しいか正しくないかは二の次のことであり、悔い改めるか、それとも我を張って悔い改めないかの選択が重要なのです。
信仰に悔い改めは必須のことです。

③悔い改めとは何か?

悔い改めとは、自分の力では救われることが出来ないと認め、神になら自分ではどうにもできない問題を解決することがお出来になると信じ、自分の人生を神にゆだねる決心をすることです。
また悔い改めは入信時の一度限りの出来事ではなく、生きている限り継続的になすべきことです。

a.信じて救われた後も、死に至るときまで、自分の力では救われることが出来ないと認め続ける。

b.しかし神様ならこんな自分を救うことが出来ると信じ続ける。

c.そして自分の人生を神にゆだね続け、従い続ける。

「ただ信仰によって」というのは、悔い改めなしにただ信じればよいということではありません。
信仰という言葉の中には、『悔い改め』と『信じる』と『従う』という三つの行動が含まれているのです。
もし、ただ信じているだけというのであれば、そのような信仰は実質の伴わないものであり、その人を救うことはありません。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. yellowalks より:

    カトリックのyellowalksです。
    救いの意味を理解してないキリスト教の信者が教会内にたくさんいます。
    ありのぱぱさんの意見に賛成します。
    僕の救いに対しての考えは、
    【1】入信・洗礼は、神様が造ってくれた状態から、神様の元に帰るキリストの道を這いつくばってでも進むこと。
    【2】初聖体・堅信・告解は、イエズスの十字架の道を神様に甘えながらでも進む為に聖三一体の神様が、人間のためによういした霊魂のマンナ・決心・憐れみ。
    【3】信仰生活はイエズスの十字架の道を自分の十字架を担いで終点に向かうこと。
    【4】終点の入口が死。
    【5】審判(私的)にかかる。
    【6】最後の審判を受ける。
    【7】神様から祝福を授かる。命の書に明記される。御褒美を貰っちゃう。

    これが、僕が教わり、心が持っている救いの意味です。
    これを教会はもっともっと信者にシツコイぐらい教えなければなりません。

    終わりのとき、イエズスに向かって「主よ!主よ!」と言う者が救われるのではなく、父なる神の御旨を行う者が、救われる

    • arinopapa より:

      yellowalksさん、こんばんは。
      コメントしてくださり、ありがとうございます。

      またコメントしてください。お待ちしています。