理想体型であることのメリットは何でしょうか?
それはやはり健康であり続けることが出来るという事に尽きるのではないでしょうか。
それはそうと、ありのパパは何年かぶりでぎっくり腰をやってしまいました。
前回ぎっくり腰になったのは、腰痛予防のために褌を締め始めたのが2007年の七月で、その直前に腰を痛くしたのを覚えていますので、2年8ヶ月前ということになります。
この期間を長いと見るか、短いと見るかは人によって違うと思いますが、ありのパパは半年に一度の割合で腰痛に悩まされていましたので、(半年を1クールとして)5クール無事だったということですので、ある意味では感謝です。
しかしそうとばかりも言っておられません。
ぎっくり腰になった原因を分析し、対策を実行し、効果を検証しなければなりません(笑)。
今日は皆さんとご一緒に、腰痛予防の視点から見た体型管理を考えてみたいと思います。
①自分にベストの体重や脂肪率を知ること。
ありのパパの脂肪率は、ずっと8.5%だったのですが、このところ12%を超えていました。
でもまぁ、このぐらいだったらいいだろうと思ったのが、間違いのもとでした。
脂肪率が標準より低かったので安心していたのですが、自分の体にとっては許容範囲を超えていたようです。
その証拠にウエストは膨らんでいました(笑)。
お腹に脂肪はついていましたが「まだズボンが履けるからいいや」ぐらいにしか考えていませんでした。
これも大きな間違いでした。
②早速、対策を講じる。
普段から四群点数法を実行していますが、より厳格に実行することにしました。
主食を半分に減らしました。
パンは二枚食べていたのを一枚にし、ご飯は200g食べていたのを100gにしました。
たったこれだけで2週間で脂肪を1.5k落とすことが出来ました。
ウェストも2.2cm細くなりました。
あと1cm細くすれば、ぎっくり腰という魔女の一撃から逃れることが出来るはずです。
③新たにしようとしていること。
それは腹筋運動を実行することです。
何も腹筋を六つに割ろうとは思いませんが、腰痛予防の三大秘訣はa.腹筋を鍛える b.腹に脂肪をためない c.腰のストレッチと言われます。
めんどくさいことが大嫌いなありのパパですが、死に至るまで健康であり続けることを最大の願いにしていますので、いやいやでも腹筋運動をやってみようと思います。
こんなときに限ってスポーツ倶楽部の前を通ると一月4750円と書かれたのぼりを目にしました。
頭の中で一年いくら掛かるか計算しますと、約六万円ではありませんか!
すぐ却下しました(笑)。
そこで皆さんにお願いがあるのですが、家で継続的に実行可能な腹筋運動がありましたら、是非ご紹介ください。
ただご自分が現に実践しておられることに限ります。
よろしくお願いいたします。
Tags: 四群点数法
聖書には「姦淫の現場で捕らえられた女」の記事があります。
その記事を読んで、一番何が心に残ったかを聞いてみると、実に興味深いことが分かります。
それは人によってこの記事から全く異なるメッセージを受け取っているということです。
今日は皆さんとご一緒に、この聖書記事をもとにして人としてのあり方を考えてみたいと思います。
1.「再び罪を犯してはならない」
①この聖書個所に読んで一番心に残るのはどこかを聞いてみると、大抵の人は何と物語の最後にある「再び罪を犯してはならない」という個所をあげます。
これは何を意味しているかというと、「一度目は赦してやった。しかしまた同じ罪を犯したら承知しないからな」という意味で受け取っているということです。
それはありのパパの下衆(げす)の勘繰りだという方よ。
でもね、この物語から「イエスがわたしを赦された」というメッセージを受け取った人は、「わたしもあなたを罰しない」という個所が一番心に残るのですよ。
そうではなく「再び罪を犯してはならない」という個所が一番心に残ったということは、やはり神から赦しのメッセージではなく、警告のメッセージを受け取っているということを表しているのではないでしょうか?
②自分自身を本当に赦していたら、人を本当に赦すことが出来る。
自分自身を赦したつもりになっているときは、ちょっとした人の仕種(しぐさ)さえ許すことが出来ません。
パートナーや友人の些細なクセが許せないという方が、時々おられます。
たとえば「うちの主人は本当にだらしがないんです」という奥様がおられます。
なぜご主人のだらしなさが許せないかというと、実は自分がだらしないことを赦してないからです。
「私はだらしなくなんかありません。きぃ~(笑)」そうかもしれません。
あなたは自分がだらしないことを知っており、その自分をだらしなくないように躾(しつ)けました。
そのこと自体は良いことですが、その躾けた動機はどこから来ているでしょうか?
だらしない自分は良くない自分、きちんとしている自分は良い自分という二元論から来ていないでしょうか。
もしそうなら、だらしのない自分を赦していないということになります。
自分はだらしなくならないためにこんなに努力したのに、こんなに我慢しているのに、あなた(この場合は夫)はちっとも我慢してないように見えるのが、本当に腹が立ってしようがない。
これが人を許せないという心のからくりであるのです。
2.「わたしもあなたを罰しない」
①再び、國母和宏さんのこと。
多くの国民が、國母和宏さんの服装を見て憤慨したのは、自分がTPOをわきまえた服装をするのに窮屈な思いをしているからです。
「自分はこんなに窮屈な思いをしているのに、あいつは少しも窮屈そうでない」
これが我慢ならないのではないでしょうか?
だから筋違いの非難をするのです。
彼の服装が非難されたのは、空港におけるものです。
空港における服装は原則として私服扱いです。
開会式でもなく、セレモニーでもありませんでした。
ちょっと考えてみれば分かることですが、彼の服装に対する批判はお門違(かどちが)いのものであると言わざるを得ません。
②自分自身を赦したつもりになっているのと、本当に赦しているのとでは天地の開きほどの違いが出てきます。
自分のお子さんに友達が出来ないということで悩んでいるお母さんがおられました。
その悩み自体は正当なものであると思われるかもしれません。
しかし、そうであるとばかりも言えないときがあります。
このお母さんはご自身が子供のとき、友達がいなくて辛い思いをされたので、せめて自分の子供には、こんな辛い思いをさせたくないという願いを持っておられました。
お母さんがご自分のお子さんを見つめる眼差しの先には、小さかった自分自身の姿が映っていたのかもしれません。
それが、お子さんに対して「人間には外向的な性格の持ち主もいれば、内向的な性格の持ち主もいる。みんな違って、みんな良い」という思いを持つことが出来ず、お子さんに対して強迫的な対応をする原因になっているのではないかと考えました。
このお母さんに「あなたが子供をありのままに受け入れないで、一体誰が子供をありのままに受け入れるのか」と言わせていただいたところ、聡明であれらたお母さんはよく納得してくださり、「自分が辛い思いをしたので、子供には辛い思いをさせたくないという一念で心が一杯になっていた。それで子供に無理な要求をしていました。これからは子供の性格に合わせた対応に変えていきます。内向的であることはちっとも悪いことではないのですね。安心しました。」と言ってくださいました。
このように自分自身を赦すと、人を許すことが出来るようになります。
3.クリスチャンは教会の内と外で、赦しを提供する必要があります。
①私たちクリスチャンは教会内で裁き合っていないでしょうか?
裁くところまで行かなくても、十分に赦し合っていると言えるでしょうか。
よく言って、裁いてはいないかもしれないが、決して赦してはいないという状態であるように見えます。
②未信者の友人や地域の人々、また会社で一緒に働く人々に十分赦しを提供しているでしょうか?
クリスチャンと言うと品行方正と言われますが、これは一面では気難しいと思われていると言うことではないでしょうか。
クリスチャンを指して「あの人なら、たとえ何があったとしても自分を赦してくれると思う」と言ってもらえているでしょうか。
それとも………………(笑)。
◎自分自身を赦し受け入れ、人様をも同じように赦し受け入れる人生を送りたいものです。
病気の呼び名が変わることによって、一般の理解が促進されるということがあります。
たとえば成人病という病気は、生活習慣病という呼び名に変えられてから世間の理解が進みました。
また精神分裂病という病気も、統合失調症という呼び名に変えられたことによって、病気に対する正確な理解をもたらしました。
①他の方のブログで知ったのですが、アルコール依存症がアルコール使用障害という呼び名に変わるかもしれないということです。
アルコール依存症という病気の呼び名の変更は、大変良いと思います。
なぜなら依存している状態は人の目に見えません。
それで家族がどんなに注意しても本人が「俺はアル中じゃない!」と言えば、それ以上追求できませんでした。
しかしアルコール使用障害なら、依存しているかどうかに関わりなく「酒を正常に使用することに失敗している」ということですから、本人に認めさせやすくなります。
②酒による様々なトラブルの原因がどこにあるかを長い時間を掛けて探すのではなく、酒によるトラブルを解決するにはどうしたら良いかを考えることを優先させねばなりません。
もちろんやみくもに実行しても成功する確率は低くなりますから、ある程度の目算は付けておいたほうが良いでしょう。
しかし座り込んでいたずらに原因探しをするよりは、出かけて行って、断酒会の会合に出席するほうが良いということです。
③アダルトチルドレンであってアル中の場合、どちらの解決を優先させるべきでしょうか?
もちろんアル中のほうです。
なぜならアダルトチルドレンであるということで死にはしませんが、アル中をそのままにしておくと必ず死ぬからです。
ですからアル中をある程度治してから、アダルトチルドレンの問題に取り組むのが良いと思います。
④アダルトチルドレンであって、夫婦関係がうまく行かず離婚した場合はどうでしょうか?
再婚相手を探すのが先でしょうか?
それともアダルトチルドレンの問題に取り組むのが先でしょうか?
様々な問題がありますから、一概には言えませんが、ありのパパはやはり再婚相手を探すのは一時中止して、アダルトチルドレンの問題に取り組むのが先決であると考えます。
なぜならアダルトチルドレンの問題をそのままにして再婚しても、結局同じことを繰り返す可能性がきわめて高いからです。
⑤google検索でこのブログに来られる方が、アダルトチルドレンともう一つのキーワードの組み合わせで訪問してくださいます。
たとえば「アダルトチルドレンと人間関係が苦手」とか「アダルトチルドレンと人の目を見てはなせない」とか「アダルトチルドレンと転職したくてたまらない」とかです。
確かにそれらの問題にはアダルトチルドレンであることが関係しています。
しかしアダルトチルドレンをどうこうするよりも、その問題単独で解決することを目指したほうが手っとり早いのではないかと思うのです。
◎アダルトチルドレンという名前が指している実態は、実はあやふやなものではないでしょうか?
そうであるとしたら、アダルトチルドレンから来ている問題ではあっても、その問題を解決するには一つ一つ具体的に解決方法を考え実行していく必要があると考えますが、皆さんは如何お考えでしょうか?
シーシェパードという反捕鯨団体が、日本の調査捕鯨船に体当たりを喰らわせるという事件が起きました。
日本のマスコミの報道を鵜呑みにしていると、シーシェパードは極悪非道の団体のようにも思えます。
しかし世界を見ると、オーストラリアとニュージーランドの首相は、もし日本が調査捕鯨を止めないなら、国際裁判所に提訴すると言っています。
どうやら、ここでも「日本の常識は世界の非常識」ということが、まかり通っているようです。
①調査捕鯨という欺瞞
鯨の生態系調査という名目で、捕鯨は続けられています。
しかし実態は捕鯨によって得られた鯨の肉は市場に流通しており、商業捕鯨が行われているのと同じです。
ここに多くの国の人々が偽善を感じるのでしょう。
日本人はこのような反応を海外からされると感情的になり、違う問題を持ってきて対抗しようとします。
即ち「西洋人はダブルスタンダードである」と言う主張です。
しかしその主張が説得力を持つのは、自分がダブルスタンダードでない場合に限ります。
戦前、我が国は西洋諸国に対して「あなたがたは自分ではアジア諸国を植民地化したのに、なぜ日本がアジア諸国を植民地化するのを反対するのか」と子供のような反論をしました。
このような反論が説得力を持って、諸外国の国民の心を打つはずもなく、ついに無謀な戦争へ自らを追い込みました。
同じ間違いを犯してはなりません。
②捕鯨から利益を得ているものはいない
始めは捕鯨は水産会社によって行われていました。
この水産会社からの献金をもらっていた自民党と、既得権益を守りたい農林水産省の官僚が一体となって、捕鯨続行のために全力を尽くしました。
しかし国民の嗜好の変化によって、鯨の肉は食べられなくなり、水産会社にとって捕鯨はお荷物な存在となりました。
捕鯨中止反対のキャンペーンを張っていた手前、止めるとも言えず長い間赤字を垂れ流していたのですが、ついに耐えきれなくなり、捕鯨専門の団体を設立し、そこに捕鯨を集約させました。
③捕鯨は税金によってまかなわれている。
驚くことに、その捕鯨団体は税金によってまかなわれているのです。
捕鯨船の修理費用から、船員の給料に至るまで、全て税金が投入されています。
鯨の生態系を調査するだけなら、年間900頭の鯨を捕獲する必要はありません。
誰も得をしていないのです。
無残に税金が垂れ流され、900頭の鯨肉は食べてくれる人もなく、彷徨うことになります。
④鯨の肉は学校給食に供されている。
鯨は回遊する小さな魚を食料にしています。
小さな魚には微量の水銀が含まれています。
小さな魚であれば問題ない水銀ですが、鯨の体内には多くの蓄積された水銀があります。
同様に水銀を多量に含む魚としてマグロがあります。
西洋諸国では、マグロを妊産婦が食べることを禁止しています。
アメリカの寿司レストランでは、子供の客にマグロを供することを断っています。
そのマグロの何百倍も大きい鯨の肉が学校給食に供されているのです。
結局、面子にこだわって調査捕鯨を続け、その挙げ句誰も食べないので、しようがなく学校給食に使われているのです。
自分の子供が水銀たっぷりの鯨の肉を食べさせられているのです。
子供たちの両親は地方自治体に働き掛けて、鯨肉を学校給食に利用することを止めさせなければなりません。
⑤西洋人は牛を食べているではないかと言う反論の脆弱さ。
西洋人は牛を食べるのに、なぜ日本人が鯨を食べてはならないのかという主張があります。
一見もっともな主張のように聞こえます。
しかしこれが「私たちは牛を食べない代わりに、鯨を食べているのだ」と言うなら、説得力はあります。
西洋人もきっと納得するでしょう。
しかし「私たちは牛も食べるが、鯨も食べる」と言うのでは、「牛は食べるが鯨は食べない」西洋人を納得させることは出来ません。
◎もうそろそろ西洋人の我慢の限界が近づいているように見えます。
この問題の本質は「捕鯨」ではなく、自分とは違う価値観を持つ人々をどれだけ思いやることが出来るかということです。
彼らにも良心があります。
その良心がいかほど私たちから見て非理性的であったとしても、彼らの良心を踏みにじり続けるとき、大きな悔いを残すことになります。
そうまでして、私たちが得るものは何でしょうか?
何もありません。鯨の肉など食べなくても誰も困りません。
しかし彼らの国から(狂牛病の危険のない)牛肉の供給が止まったら困ります。
また彼らに私たちの国の工業製品を買ってもらえなくなったとしたら、大きな損失を被ります。
いつまでもヒステリー的反応を繰り返すことを止めて、損得勘定をはっきりさせるべき時です。
ありのパパがクリスチャンとさせていただいたのは、少年時代でした。
その時から、教会が言っていることを全て真理であるとして受け入れてきました。
しかし信仰の年限が増えてくるに従って、信じている事柄相互の関係において矛盾があることを理解するようになってきました。
どういうことかと言いますと、リバイバルと教会成長の関係について、また教会の拡大と御国の拡大の関係について、相互に矛盾したことを信じている自分に気が付いたということです。
今日は皆さんとご一緒に、これらの問題を考えてみたいと思います。
1.リバイバルとは?
①一般的に捉えられているリバイバルとは?
皆さんはリバイバルと言うと、どんなものをイメージなさるでしょうか。
ありのパパは、天から聖霊の火が降ってきて、一瞬のうちに皆が聖霊に満たされ、その状態で御言葉を語ると、聞いた未信者は心を刺され、イエスを信じる信仰をもつに至るというイメージを持っていました。
使徒の働きを読むと、そのような理解が間違ってはいないことが分かります。
教会はリバイバルを求める祈りを献げつつ、伝道の働きを行います。
ありのパパは心の中では「聖霊の働きがなければ伝道の働きが実を結ぶことはないのだから、こんなことをしている暇があったら聖霊降臨を求めて祈った方が良いのではないか」と心のどこかで思っていました。
この考えを一度所属する教会の長老さんに聞いてもらったことがありました。
その時、その長老さんは「リバイバルがあるなしにかかわらず、伝道はイエスの命令であるから、伝道をしなければならないのです」とお答えになりました。
その聖書に忠実な考えに、なるほどと感心したものでした。
しかし心のどこかでは、もっと聖書の教えの全体を包み込む理解があるのではないかと感じていました。
②聖書が言うリバイバルとは、どんなものか?
使徒の働きを見るとき、聖霊を受けた後に明かな変化が二つあります。
一つは異言を語り始めたということです。
二つは聖霊に満たされた後、様々な肩書を持つ人々を一緒くたに扱うようになったということです。
一度目の聖霊のバプテスマのときは、ユダヤ人の中にある律法によって人々を二つに分ける境界線が取っ払われました。
四度目の聖霊のバプテスマのときは、ユダヤ人と異邦人の間にある人種的偏見という境界線が取っ払われました。
ここから導き出せる理解は、教会が困難にぶつかるたびごとに、神は聖霊のバプテスマを送って教会にその困難を乗り越えさせたということです。
③ここには、現代の教会が理解しているような、人々の救霊のための単なる便利な道具としての聖霊のバプテスマの理解を超えたものがあります。
果たして現代教会は聖霊のバプテスマを受けたとき、自分自身が変わらなければならなくなることを受け入れることが出来るでしょうか。
ありのパパには、その覚悟もなしに只の掛け声倒れに終わっているように見えます。
案外、受けたときの覚悟がないことが、求めても与えられない本当の理由であるのかもしれません。
2.教会成長とは?
①教会成長論が教える教会成長とは、多くの人々が教会にやってくる以上のことではありませんでした。
彼らは、教会教育によって人々をクリスチャンらしくすることが可能であると言いました。
しかし福音派教会は伝統的に教育によって人々を救いに導くことは出来ないと考えてきました。
人々が救われるために必要なのは認罪ですが、聖霊の先行的恩寵によらなければ、この認罪を持つことが出来ないからです。
救われていない人ばかりの教会になったとき、教会に不祥事が多発するのではないかと危惧しました。
しかし教会の不祥事は信徒たちからではなく、牧師たちから起きてきたことは、皆さんがご承知の通りです。
これの真の理由は、この教えが単に人集めの商売に過ぎないことを知った上で採用した時点で、その牧師は神の導きに背いていたのだと思われます。
『聖霊に反逆する罪は赦されることがない』と聖書にある通りです。
②聖書が教える教会の成長とは?
使徒の働きは、段落の区切りごとに、同じような言葉が書かれています。
それは『教会は聖霊に満たされ励まされたので、各地に渡って強くなっていき、次第に信者の数が増えていった』という文言です。
ここから読み取れることは、教会と聖霊の関係が密接であるとき、教会の数的成長も伴っているということです。
③現代の教会は伝道以外の事業も多く行います。
その様々な文化事業に通して、人々がキリストに触れる機会を提供するためです。
これは教会の側から見ると、至極もっともなことなのですが、未信者の側から見ると、受け入れることが難しい理屈であると言わなければなりません。
教会と社会のトラブルを見ると、文化事業に見せかけて伝道をしようとしているところに起きているように見えます。
これは聖書にはないことです。
ありのパパの個人的意見ですが、教会は伝道と社会事業をはっきり分けるときが来ているのではないかと考えています。
皆さんは如何お考えでしょうか?
3.御国の拡大とは?
主の祈りの中に『御国が来ますように』との祈りがあります。
これは直接的にはイエスの再臨によってもたらされる神の国を指しています。
それに加えて、もう一つの意味があります。
それは、『御国が来ますように』とクリスチャンが日々祈るとき、それは自分を通して御国が拡大しますようにとの願いにつながっていきます。
自分は座り込んで、『御国が来ますように』と祈るだけなら、それは異教徒と変わりません。
御国の拡大とは、まず第一に自分の心の内にある神の御支配なさる領域が拡大するということです。
第二に自分の伝道を通してイエスを信じる人が増え拡がることによって、御国が拡大するということです。
◎リバイバルと教会の成長と御国の拡大が、矛盾なく一つのものとなったとき、著しい神の働きが地上にもたらされるものと信じます。
アメリカの有名なゴルファーがセックス依存症の治療を受けているというニュースが流れました。
先日はそのゴルファー自身が謝罪会見を行いました。
それについて日本のテレビ局の現地特派員が「みんなが知りたがっている復帰の時期については明言しなかった」と述べました。
この人には、アメリカにいながらアメリカ人の気持ちが全然分かっていないように思われました。
この特派員はお腹の中では「複数の人間と婚外交渉をしてなにが悪い」と思っているのではないでしょうか?
だから誰も気にしてない「復帰の時期」などについて、「みんなが知りたがっている」などと言及したのだと思います。
今この時期に復帰の時期を明言しようものなら、選手生命を失いかねないことが分かっていないようでした。
日本のマスコミの的外れ報道もいい加減にしなければなりません。(笑)
今日は皆さんとご一緒に、この依存症の問題を考えてみたいと思います。
①セックス依存症は特別な病気か?
セックス依存症は、まだ正式に依存症として認定されていませんので、ありのパパの個人的見解に過ぎませんが、他の依存症と同じメカニズムが働いていると考えています。
ということは、そんなに特別ではないということが言えると思います。
②他の依存症との関係。
ニコチン依存症や、アルコール依存症、薬物依存症、ギャンブル依存症など、様々な依存症があります。
みんな面白がって、セックス依存症がどうのこうのと言っていますが、ありのパパに言わせれば、「タバコ吸いながら、そんなこと言うんじゃない。まずニコチン依存症を治してから、人のことを言え」
③私たちが依存症になる危険はあるか?
誰でも何らかの依存症になる危険性があります。
依存症になるきっかけは、そのものとどれだけ長期間に渡って交わったかという事に掛かっています。
たとえば若いときから大酒を飲んでいた人は、そうでないほかの人より依存症になる確率は高いと言われます。
また若いときからインターネットに接する今の人々は、そうでなかった世代の人と比べて、ポルノ依存症になる危険は非常に高いです。
クリスチャンでも例外ではありません。
中国・家の教会の指導者が国外から脱出して活動の拠点を西側に移したのですが、その方が「中国では牢獄という迫害があったが誘惑は少なく問題ではなかった。しかしここ西側ではネットによるポルノの誘惑が物凄く強い。この誘惑に勝つことは大変困難なことです。」と仰いました。
ありのパパは何と正直な方だろうかと驚きました。
この正直に生きる生き方を実践している限り、誘惑に負けることはないだろうと思いました。
④生育歴との関係。
貧しく生きた人は買い物依存症になる危険が、そうでなかった人より大きいです。
ありのパパが子供の頃、母親の旅行のお土産は一個の駅弁でした。
そのたった一つの駅弁を兄弟で分けて食べるのです。
お土産の駅弁を食べるたびに「これ全部、一人で食べれたら、どんなに良いだろうか」と感じていました。
それで働くようになってからは新幹線に乗るたびに駅弁を食べるようになりました。
東京駅で出発前に一つ、出発してから一つ、乗り換えるとまた一つ。
このような異常な行動が十年以上続きました。
小さな傷でしたので、10年間の代償行動で、この傷は癒されました。
今は二段重ねの駅弁を一つだけ食べます(爆)。
これがもっと大きい心の傷である場合の代償行動は、その人を破滅に導きますので、違う解決方法を見つけなければならないということになります。
⑤治ったと言えるのは、どのようになったときか?
二つの境界線があります。
一つ目の境界線は異常な依存行動が止むということです。
これは多くの人にとって難しいことです。
病院でアルコール依存症の治療を受けて退院し、家に帰る途中で酔っぱらうというのはよく聞く話です。
しかし12ステップを実践し、最初の三つのステップをやれば、そのような病的行動は止みます。
二つ目の境界線は、心が変わるということです。
この心が変わるということがない限り、また戻っていくのは時間の問題であると言います。
それで元依存症の方々は自分に鞭打って12ステップの4番目から12番目をしんどくてもやり抜きます。
何しろ命が掛かっていますから。
◎日本のマスコミの特派員のようにこの病気に無関心になることなく、自分もまた依存症になる可能性があることを知り、依存症の人々を受容し、自分自身の心を変えていく営みを始めたいものです。
キリスト教が他の宗教と最も異なっている点に、「命の水の川」の教えがあります。
命の水の川とは何でしょうか?
イエスは『誰でも渇いているなら、わたしの所に来て、心の渇きをいやす水を飲みなさい。そうしたら飲んだ人の心の奥底から、命の水が川となって流れ出るようになる』と言われたのです。
「わけ分からん。口から川が流れるのか。口川ダムか!」と言わないでください(笑)。
今日は皆さんとご一緒に、命の水の川について考えてみたいと思います。
1.どうしたら自分のうちに、命の水が川となることが出来るか?
①自覚しているかどうかが鍵。
『だれでも渇いている人は』とイエスは言われました。[ヨハネ7:37]
「渇いていない馬に水を飲ませることは出来ない」という格言があります。
アルコール依存症の方々が仰ることに「心の渇きをいやすために酒を飲んでいた」というのがあります。
しかしそのことを公言することはなかったし、その時は自分でも自覚がなかったようです。
どんな問題であっても、その必要を覚えることが転機となります。
「自分は渇いている」と自覚しない限り、たとえ神であっても、あなたを助けることは出来ません。
②イエスのもとに行くこと。
『わたしのもとに来て、心の渇きをいやす水を飲みなさい』
渇きを自覚したあとは、イエスのもとに行くことです。
イエスのもとに行くとは、どういうことでしょうか?
イエスのおられるところに行くということです。
それは(本当の意味での)教会ですし、スモールグループであるかもしれません。
③あとは神様がしてくださる。
『私を信じる人は、聖書が教える通り、その人の心の奥底から命の水が川となって流れ出るようになります』
渇きを自覚し、イエスのもとに行って水を飲むなら、あとは神様があなたの心の奥底から命の水が川となって流れ出るようにしてくださいます。
2.命の水の川とは何か?
①それは聖霊の体験であること。
『これはイエスを信じる信者が、あとで受ける御霊のことを言われたのである』[39節]
聖書が証するように、これは聖霊の体験であるのです。
カウンセリングの世界にかかわっていると、何でもかんでもカウンセリング的理解にとどまってしまう危険があります。
気を付けなければなりません。
②それは内住の体験ではないこと。
キリスト教会の中に、この聖霊の体験を御霊の内住と同一視する人々がおられます。
しかし御霊の内住は、救いのときに神が私たちにしてくださることです。
ですから聖書のどこにも「御霊の内住を求めよ」とは書かれていないのです。
③それは救いの体験のあとに来るキリスト者としての第二の体験であること。
今まで見てきたことを勘案すると、命の水の川が信者の心の奥底から流れ出るようになる体験は、聖霊のバプテスマを指していると考えることが出来ます。
3.霊的体験と心の問題の関係
①霊と心を切り分けるのは、聖書の教えではない。
「霊と魂を切り分けることがキリスト者に必要」と教える人がおります。
これは聖書に忠実な教えであると言えるでしょうか?
ありのパパは、聖書が警戒するように教えているグノーシス主義の影響のもとにある教えであると考えます。
聖書は『人は霊と心と体の三つによってなるもの』と教えています。
これは人は三つの部品からなっているというのとは全く違うことです。
霊と心と体という三つの性質が不可分のものとしてなっているのが人間であると、聖書は教えているのです。
②心の必要と霊的必要は同一であること。
心が渇くというのは、精神的な問題であり、命の水の川とは霊の領域で起きることです。
しかしイエス様は、心の問題を解決するために、霊的な恵みを求めるようにと言われているのです。
③焦点を心の必要に当てるべきこと。
現代のキリスト教会では、現代思想の影響を受けて、霊と心と体をきっちりと分けて考えることが当たり前のようになっています。
すなわち肉体の病気になれば病院に行き、精神的な病気になれば精神科かカウンセラーに掛かり、霊的な問題だけが教会が扱う領域であるように思っています。
しかし統合的存在である人間から、体の問題と心の問題を切り離したとき、果たして教会が扱うべき対象は残っているでしょうか?
どこにも残っていないと思います。
これが現代において教会の宣教が振るわない真の理由ではないかと考えます。
人間を全人的存在として捉え直していくことが、聖書の信仰に戻るために、まずやらなければならないことであると考えます。
◎この問題についても初代教会の信仰、即ち聖書の信仰に立ち返ることが必要とされています。
皆さんは、どうしたら知らないうちにお金がたまると思いますか?
今日は皆さんに、とっておきの「知らないうちにお金がたまる方法」を伝授いたしましょう(笑)。
「なぁ~んだ」と言わないでいただきたいのですが、秘訣は簡単なことの積み重ねに過ぎません。
それは支出を減らすことと、資産を回転させることです。
1.支出を減らす
同じような水準の生活をしているように見えるにもかかわらず、その生活を維持する費用は考えられないほど違うものです。
もうこれはどれだけ「楽して節約する法」をテクニックとして知っているかに掛かっています。
もちろん知っていても実行しないなら、何の役にも経ちません。
先日、コメントしてくださった方がおられたのですが、その方は当ブログで紹介した「四群点数法」を年初から実行され、既に6.5kの減量を成功され、あともう6.5k減量される予定だそうです。
世の中には何百・何千万というダイエットに成功できないで嘆いている人々がおられるのに、この方は健康にも良い四群点数法を実践して「一生、理想体型で生きる」人生を実現しておられるのです。
いつでも問題解決の鍵は、有用な情報をどれだけ知っているかということと、それを本気で実行することです。
①公共料金を減らす。
以前このシリーズでは電気料金を節約する方法をご紹介しました。
今日は水道料の節約方法をご紹介します。
ありのパパの家では、水道料金は基本料金と同額です。
毎日入浴しますが、水を入れ換えるのは二日に一度です。
「まあ、汚い」と思われたかもしれませんが、実は銀イオンで殺菌しているのです。
二回入浴したあとの風呂水を今度は、洗濯に使います。
これも銀イオンで殺菌しているので、きれいな水として使うことができます。
アイリスオーヤマ お風呂用Ag+除菌フロート
②車に乗らない。
「無理だよ。無理無理」という声が聞こえてきそうですが、ありのパパも始めから出来たわけではありません。
始めはウォーキングで一日一万歩を目指したのですが、どうしても難しかったので仕方なく仕事で移動する時間を歩くことによって歩数を稼ぐことにしたのです。
そうしたところ、健康によいばかりでなく、一ヶ月に数万円節約できることに気づいたというわけです。
もちろん子供が小さいときは、一家で移動する手段は車しかないという現実があります。
ですからこれは子供が大きくなってから実現できることではあります。
③外食しない。
外食を止めれば、一家で何万円もの節約になります。
ありのパパも四群点数を実行する前は、外食大好き人間でした。
家族で食べに行くのも大好きでした。
グルメ気取りであったのです。
しかし四群点数法を日々実行するようになって、外食は止めました。
なぜかと言うと、やはり外食は油を使ったものが多いのと、でんぷん質と糖質で出来たものがほとんどだからです。
健康でいたいなら、脂質と糖質をどうしても制限しなければなりません。
油と砂糖を好きなだけとって、しかも健康でありたいなどと言うのは白昼夢でしかありません。
この①から③を実行するだけで、一人当たり月に二万円の節約をすることが可能です。
四人家族なら、月に8万円の節約が可能ということになります。
2.資産を回転させるとは
①株式投資において、証券会社が勧める銘柄を鵜呑みにして買うなら、必ず損します。
よく私の母親が言っていたのですが「そんなに儲かるなら、あんたがやればよい」のです。
いまだかつて証券会社の社員で、株で儲けた人の話を聞いたことがありません。
そんな人の勧める株を買っても、儲かるはずがないのです。
子供でも分かる話ですが、欲に目がくらむと分からなくなってしまいます。
②どうやって上がる株を見つけるか?
預言者に聞く必要はありません(笑)。
株式市場は上がったり下がったりしていますから、その折れ線グラフが底を過ぎて天井に向かい始めたところで買えば良いのです。
「これが難しい」って?そうです。確かに簡単ではありませんね。
ありのパパの方法は、20から30銘柄を注目します。
いつも同じ銘柄を見ていると、その銘柄の動きが分かるようになります。
その銘柄に限って売買をします。
③欲をかかない(笑)。
買った値段より10%下がったら、即撤退します。言い訳無用です。
また買った値段より15%上がるか、一ヶ月経過した場合も、売ります。
こうすることによって、資金が塩漬けになることを防ぎます。
ありのパパの売買方法は一ヶ月に一度だけです。
ですから本業に差し障りがありません。
あとは証券会社のコンピュータが監視してくれ、上記の命令を全自動で実行してくれます。
3.神の栄光を表す。
さて、今日ご紹介した方法で支出は楽して減っていき、資産は自然に増えていきます。
あなたはその結果生み出された余裕をどのように消化されるでしょうか?
聖書に出てくる、金持ちのように自分自身に向かって「もう安心だ。飲め、騒げ!」と言うでしょうか。
もしそうなら神の裁きはあなたの家の戸口まで来ていると言わなければならないでしょう。
株で儲けて、人生の最後までお金持ちであった人はごく少数です。
少なくない人々が、すっからかんになってしまうようです。
そうならない秘訣は、神の栄光を表すために人生を使うことです。
◎『あなたが魂に幸を得ているように、すべての点で幸を得、また健康であるように、私は祈っている』(Ⅲヨハネ2)
ありのパパの全くの個人的感想に過ぎませんが、イエス様はときどき無理難題を人に押しつけて、人が困った顔をするのを楽しんでおられるのではないかと思われるときがあります。
しかしそれにも、納得できる理由があります。
今日はピリポに突然襲った試練を通して、私たちの生き方を考えてみたいと思います。
ヨハネ福音書6章1節~15節は、何千人もの群衆にどうしたら食事を与えることが出来るかと、イエスがピリポに質問している個所です。
ピリポはビックリ仰天し、建前としての信仰は吹っ飛び、彼の心の中にある本音があらわになります。
試練というものは、出来るはずのないものを、どうしてもやらなければならないという形でやってくるものです。
出来ないと言っても良いのですが、それではチャンスの女神は私たちを素通りしてしまうことになります。
1.自分の問題として受け止める。
ピリピもイエスに声をかけられるまでは、大群衆の食事のことなど知ったことではないと思っていたかもしれません。
しかしまさかイエス様に向かって「おらぁ、知らね~」とも言うわけにはいきません。
それでありったけの出来ない理由を述べました。
考えられる限りの言い訳を話しているうちに、ピリポの心の中で変化が起きます。
それまでは群衆の食事の世話は誰か他の人がやるべきこと(多分イエス様)だったのが、言い訳しているうちに群衆の食事の世話は自分の問題であるという意識に変わってきます。
ひょっとしたら、これがイエス様流の指導者養成術であったかもしれません。
2.自分の問題とすることが出来たら、今度はその問題を神の問題とする。
自分の手に握ったままでは、その問題はそのままです。
しかしその問題をイエスの所に持っていき、神の問題とするなら、問題は必ず解決します。
なぜかって?イエス様は人々の問題を解決するのがお好きだからです(笑)。
聖書の記事を見ても、ピリポに質問していますが、最後はご自分がリーダーシップをとっておられるのです。
「それなら、はじめからリーダーシップを発揮してよ」と思われるかもしれません。
しかしまず初めにピリポの問題としなければ、ピリポが困っているのを見て、アンデレが動き、弁当を持っている少年を連れてくるということもなかったでしょう。
初めから神様が何とかしてくれると髙を括っているなら、アンデレは動かなかったと思います。
教会の中でも「神様が必ず解決してくださる」とよく言われます。
これが真の意味で言われていれば良いのですが、よく聞いていると、どうやら「大丈夫だよ。私たちがあせらなくても神様が何とかしてくれるから」と言っている場合が多くあるのを気づきます。
3.この方程式は私たちが抱えている問題でも有効です。
①まず目標を立てます。
すると目標を実現しないといけないと思いますから、どうしたら良いだろうかとなります。
②次に出来ることから実践していきます。(これが少年の弁当に当たります)
見ているだけの人は無責任にも「こんなことしても、なんにもならない」と分かったようなことを言います。
しかし五つのパンと二匹の魚だって、この基準で言えば、なんにもならないのです。
しかし少年の弁当は成人男性だけで五千人の腹を満たすことが出来ました。
本質はいつでも同じです。
こんなことをしても何にもならないと思えるような小さなことから始めることです。
神様はその小さなことを用いて大きな業をなし遂げてくださいます。
③白昼夢のような目標を立てないこと。
いくら神様が実現してくださるからと言って、現実を無視したような目標を立ててはなりません。
キリスト教会はこの様なことをするのが得意です(笑)。
そして目標を達成できなくても、誰も問題にしません。
それは初めから誰も達成できると信じていなかったからです。
信じることが出来る範囲に目標を置くことです。
また最終目標をいきなり、目標にするのではなく、次の段階の指標を目標とすることです。
④現実にこだわりすぎないこと。
目標を立てたと言うので、聞いてみると年間5%の目標を立てたという人がおります。
この目標を達成するのに、神の力は必要でしょうか?
人間の力だけで十分可能だと思います(笑)。
会社などで、達成できなかったときに責任を問われないために、このようにすることがあります。
これだと目標を立てる必要は余りないようにも思えます。
◎目標を立てて自分を追い込み、問題を自分のものにし、小さいことから始めることによって、問題を神の問題としていただきましょう。
そうしたら、私たちは目の前で神の奇蹟を体験できるようになります。
祝福を祈っています。
ありのままと、そのまんまとは違うことです。
たとえば朝起きて、顔も洗わず、髪もとかないのは、そのまんまです。
しかし朝起きてから、神の恵みに感謝して、顔を洗い、髪をきれいにとかすのは、ありのままを生きるということです。
1.どのようなセルフイメージを持っているかによって、違いが出てきます。
①例えばセルフイメージの低い人がよく言うことに、次のようなものがあります。
「私なんて、どうせ大したことないから(笑)」
しかしそうではありません。
『あなたはわたしの目に高価で尊い』と言われたのは、私たちをお造りになった神の言葉です。
神があなたを『高価で尊い』と言われているのに、あなたにどんな資格があって「私なんか駄目だから」などと言うのでしょうか。
あなたは神より偉いのでしょうか(笑)
②自分の意志と生き方を神の配慮に委ねるとは、自分の間違った思い込みを神の考えに合わせて修正していくことです。
中には委ねると言いながら、頑固に自分の考えに執着するクリスチャンもおられます。
しかしそれでは信仰は看板倒れに終わり、神の恵みと力があなたの人生に流れ込むことは決してありません。
もし力のない信仰生活に別れを告げて、神の恵みの中に生きる信仰生活を体験したいなら、自分の思い込みを捨てて、神の御思いを自分の新しい思いとする必要があります。
これが霊的な礼拝ということであり、全き献身ということです。
全き献身とは、歯を食いしばって、自分に出来ないことをやろうとすることではなく、否定的なセルフイメージを神が与えてくださるセルフイメージへと修正していくことです。
③弟子訓練は「ありのまま」と正反対の概念です。
訓練によっては、人は変わることができません。
人が変わるのは、ありのままを受け入れられたときです。
それを訓練によって変わることを強制されると、本当の自分を抑圧し、期待される姿を演じるようになります。
これは虚しい人生でしかありませんし、自分と人と神を偽ることです。
もし本当に神の御姿に変わりたいと願うなら、演じることを止め、本当の自分を生きることです。
そこから神の御業が始まります。
2.演じるセルフイメージと、真のセルフイメージ
①あなたは高価で尊いと言われると、本音ではそう思っていないのに「はい、分かりました」と答える方がおられます。
いかにも日本人的と言えるかもしれません。
仕方ない面もあるかもしれませんが、これではその方の生活に神の恵みが及ぶことはありません。
なぜなら演じることと、本当にそう思うということの間には天と地ほどの差があるからです。
②ではどうしたら良いのでしょうか?
まず第一にそう思えない自分を認めることです。
この部分でボタンの掛け違いがあっては、後々の信仰生活が全て無駄になってしまいます。
「金輪際(こんりんざい)自分が高価だなんて思えない」と自分の思いをはっきりさせることです。
「それでいいんですか?」はい、それでいいんです。
後は神様がよくしてくださいます。
③自分は高価だとちっとも思えないけれど、神はそう言っておられる。
わたしの考えを無理やり神の考えと同じにしようとすることを、我力で生きるといいます。
では我力ではなく、神の力で生きるとは、具体的には何を指すのでしょうか?
それは「私は自分が高価だなんて思えませんが、あなた(神様)が高価であると言っているのですから、私は自分が高価な存在であると認めます」と毎日告白することです。
そうしていくとき、自分自身のセルフイメージが向上しているのに気が付くときがやってきます。
「そんなうまい話があるんですか?」はい、あるんです。本当です。
3.「ありのまま」が一番大事なこと
①自分の必要はありままということ。
ありのままとは、どういうことでしょうか。
これは自分が罪人であるということを認めることにほかなりません。
②人々の必要もありままということ。
人々は仮面を着けて、良い人を必死で演じていますが、いつか力尽きるときがやってきます。
キリストの十字架なしには、その時は破滅のときとなりますが、自分自身をありのままに受け入れることが出来るなら、それは新生の時となります。
③日本人が一番分からないことが、ありのままということ。
日本社会ぐらい、ありのままから遠いところで社会生活が営まれている社会はありません。
それで日本人は生れてからこの方、ありのままで受け入れられるということを体験したことがないどころか、聞いたことさえないので、ありのままを受け入れてくださる神の愛と言っても、チンプンカンプンなのです。
◎では、どうしたら良いのでしょうか?
それは既にありのままを愛された人が、周りの方々をありのままに受け入れることによって、本当の愛がどういうものか体験していただくほかはありません。
「論より証拠」という言葉があります。
人は愛が理屈では分からなくても、体験するなら愛を実感することが出来ます。
その結果、人々はあなたにこう言うようになります。
「私には神様が分からないけれど、あなたの信じる神様は本物の神様だと思うから、私もあなたの神様を信じる。」
祝福を祈っています。
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