1.原理主義と世俗主義
現代においては信仰と政治を分けて考えることが当然のこととされています。
一部のイスラム諸国で行われているイスラム原理主義による国家支配を見るなら、そのように考えるのは当然のことであると思います。
しかし気を付けなければならないことは、それが世俗主義になってはいけないということです。
世俗主義とは、信仰を心の中だけのこととし、世の中のことは世の中を支配する原理にもとづいて考えていくということです。
要するに、心と行いを分離させる二元的理解です。
これはキリスト教信仰の実質的な死を意味します。
なぜならイエスの十字架の目的は、イエスを信じる者を通して社会の罪を取り除くことにあったからです。
即ち、心と行いを一致させる信仰理解であるのです。
このような訳で、私たちクリスチャンは原理主義と世俗主義の中間の道を歩んでいくことが必要と言えるでしょう。
2.世俗主義とキリスト教信仰
世俗主義的理解に立つと、国家が罪を犯しても、それを神が裁かれるという発想は出てきません。
却ってそのようなことを言うと、神は傲慢であるというような妄言さえ出てきます。
しかし聖書を見ると、旧約聖書においてはイスラエルが神に従ったとき栄え、神に背いたとき国家は弱体化しました。
新約聖書においても、イエスを神がお与えになった救い主と認めなかったことが、西暦70年のエルサレム陥落につながりました。
ですから政治と神の裁きを分けて考える世俗主義的発想は聖書を神の言葉と信じている限り、出てくるものではありません。
3.キリスト教信仰と歴史認識
クリスチャンは聖書に示されている神の御意を自分の国の歴史に適用することが必要です。
個人であれ、国家であれ、神に反逆するとき神の裁きを受けます。
そのときの神の裁きとは、旧約聖書によるなら一般的に言って、外国との戦争に負けることです。
その故に戦争に負けたときは、いたずらに言い訳したりすることなく、真の原因を探らなければなりません。
戦争に負ける原因はただ一つ、国家が神に反逆したときです。
では我が国のどんな点が神への反逆に問われたのでしょうか?
①天皇を生ける神とした(現人神=あらひとがみ)
現人神とは、人となられた御子なるキリストへの対抗概念にほかならないのです。
この罪は真っ向からの、全天全地を支配なさる神への挑戦でした。
その結果、我が国は惨澹たる被害を蒙らなければならなくなったのです。
②韓国・中国を植民地とした。
神の御意は、諸国の民が自立して国づくりに励むことです。
決してどこかの国の属国になることによって、開発・発展を図ることではありません。
我が国は植民地化によって、開発に尽くしたと言う人々は次のことを知らなければなりません。
誰がそうしてくれと頼んだのですか?
誰も頼んでいません。
親切ごかしにふざけたことを言うのも大概にしなければなりません。
私たちの国の名誉を貶(おとし)めるようなことを言うのを止めねばなりません。
彼らは国家の名誉を傷つけているという意味において売国奴です。
③教会を迫害・弾圧した。
戦前の神道原理主義政府は、単に迫害するにとどまらず、神のものである教会に手を突っ込み、神道国家の支配下に置きました。
これは取りも直さずキリストのものである教会を異教の神々の支配に置いたということです。
この大罪を神が見過ごしにされるはずもありません。
◎聖書を神の言葉と信じるなら、ただ信じるというところに止まらないで、聖書を自分の国に適用することが求められています。