リベラル派教会と福音派の対話(その1)

「日本基督教団のこと(その2)」でコメントしてくださったリベラル派信仰の兄弟がおられます。
その方のコメントを読ませていただくと、大変論理的であり、また誠実さが文面からにじみ出ております。
福音派がリベラル派に持つ理解には偏見といわなければならない事柄も多いと思いますのに、感情的にならず、聖書から、神学から、論じてくださいました。
ありのパパは人様の主張を評価するときには、論理的であるか、聖書的であるか、神学的にどうか、の三点で考慮いたします。
その結果、この対話を多くの方々にも知っていただいた方が有益であると思いました。
それでコメント欄でのやりとりだけでなく、その兄弟が書かれたことに対してブログで答えていき、またコメント欄にて応答をいただくということにし、このやりとりを可能な限り、「ありのまま日記」と「ありのままブログ」の両方に転載するようにいたしました。
もちろん、ありのパパとこの方だけのやりとりではありませんから、他の方々もどしどしコメントしてくださいますようにお願いいたします。

この方のコメントのアドレスを張り付けておきますので、是非お読みください。

http://arinopapa.arinomamachurch.com/キリスト教/日本基督教団のことその2-2.html#comment-43


①その証言を書いたのは、有限な人間なのですから、当然のことながら聖書には様々な誤りや時代的制限があるし、それは仕方のないことなのだ、という見方なのです。(引用ここまで)

神がご自身を「啓示」してくださり、その啓示を聖霊である神が「霊感」によって聖書記者たちが誤りなく聖書を記すことができるようにしてくださり、聖書を読むときに信者に「照明」を与えて正しくみこころを理解し受け取ることができるようにしてくださるというのが、福音派というか伝統的なキリスト教の理解であると思います。
しかしリベラル派は、[その証言を書いたのは、有限な人間なのですから、当然のことながら聖書には様々な誤りや時代的制限がある]と仰います。
有限な存在である人間だからこそ、神は霊感をお与えになったのではないでしょうか?
様々な間違いや誤りや時代的制限があるのは仕方ないがないと言うなら、そもそも霊感とは一体何なのかということにならないでしょうか?

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

聖書自身が、聖書の全巻に渡って霊感の助けを受けて書かれたのであることを主張しているのです。
このように見てくると、リベラル派のこのことについての主張は聖書の証言と矛盾するのではないでしょうか。
少なくとも私にはそう思えます。

②聖書は、イエス・キリストを証ししている書物であって、歴史や科学の教科書ではないのだから、歴史的・科学的に誤りがあるのは別に問題なし、と考えます。(引用ここまで)

本当にそうでしょうか?
そんなに簡単に、これは信仰の領域、これは歴史的・科学的領域の問題であるというように切り分けが出来るものでしょうか。
一見歴史領域の問題に見えることの中に信仰についての、みこころが示されている場合はどうするのでしょうか。
ちゃんと切り分けると言われるかもしれませんが、私にはすべての領域が神の霊感によるものだと理解し信じない限り、神のみこころを真っ直ぐに受け取ることは出来ないと思われますが、いかがでしょうか。
信仰の領域において示された神のみこころに従うことに抵抗を感じるので、無意識的にその問題を歴史的・科学的領域の問題であるとしてしまうということはないでしょうか。

もう一つの大切な問題は、誤りがあるという判断は人間がするのですから、これは人間を神よりも賢いものとすることにならないでしょうか。
申し上げたいことは、これは破綻している論理ではないかと言うことです。
聖書に対して、これは正しい、これは間違っていると言うのは、よく考えてみると、そのように判断している人間を神よりも上位に置くことです。
しかしすべてのものの上におられるのが神であられます。
この点はどのように理解しておられるのでしょうか?

③もし、聖書が、そのまま客観的な意味で「神の言葉」であるとしたら、聖書を読めば、そのまま神様のこと、イエス・キリストの福音が伝わると思うのですが、実際には、聖書を興味半分で読んでも、退屈な宗教書にすぎないと思う人が大部分ではないかと思います。(引用ここまで)

驚きをもってこの部分を受け止めました。
聖書はすべて誤りのない神の言葉であるので、私たちが従うなら、間違いなく天国まで導いてくれる書物です。
ですから、素のままの私で、ありのままの私でいるときに、最も聖書がよく分かるのです。
これは大切な問題です。
多くの人々が「分かった感じ・理解できた感じ」を求めて、ディボーショナルな書物を求めます。
これが現在問題になっているマインド・コントロールの温床なのです。
たとえ退屈さを感じようと感じまいと、そんなことにはお構いなく聖書を読まなければならないのです。
そのようなとき聖霊である神様が働いてくださるのです。
順序が逆になってはいけません。
聖霊が働かれると、退屈な書物が神の言葉になるのではありません。
神の言葉と信じて聖書を読み進んでいくときに、聖霊が働いてくださるのです。

(ということで今日はここまでといたします。どうぞ奮ってコメントお寄せくださいますように。)

7 thoughts on “リベラル派教会と福音派の対話(その1)

  1. 岡田さん、おはようございます。
    コメントをありがとうございます。
    実は私もそのように感じています。
    ただそれを言っても、相手の方が「本当にそうだね」ということはならないようです。
    ですからこれを議論を通じて分かっていただくしか道はないみたいです。
    しかし「良心的リベラル」のクリスチャンは教会の宝ものだと感じます。
    なぜなら議論させていただくことにより多くのことを学ばせていただくことが出来るからです。
    それでは良い聖日をお過ごしください。

  2. こんばんはありのばばさん、場所違いで、すいません。

    聖書の文脈を考えず
    一節のみを、拡大解釈することの危険性は じゅうぶん理解しております
    いまローマ書9章をよんでいて ふと感じました
    福音を 聞くことなく 亡くなられた 人々のことに 答えを出そうと すること これは、人間の願い 人間の努力では ないだろうか ことは あわれんで下さる 神による

    神のみの 領域に わたしたちが 口出しすることは 差し控えなければならない そう思いました
    リベラルな神学や実存神学を お聞き させて いただいて 感じることは
    わたしたちファンダメンタルな立場では 聖書の中に 自分が 住んでいるわけですから 家出しない限り、世帯主である
    おとおさまの おっしゃっることを無条件で聞かなければなりません

    リベラルの場合 聖書のほうから 自分の中に 入って来てもらい その入って来た みことばを 自らの知識と英知を絞り 取捨選択していく そういう印象を 受けるです これは人の努力ではないでしょうか。

    人の願い 努力が 必要な場合と 神のまえに放棄しなければならない場合がある そう感じました

  3. 一重まぶたさん。

    上記の書き込みに、ひとつ追記します。

    私の上記の書き込みの内容では、旧約の中でメシア待望の箇所は確かにそうかもしれないけれど、一重まぶたさんが言われるように「旧約」がユダヤ人の立場から書かれた民族主義的な書物で、しかも近親相姦とか虐殺とかのおぞましい出来事が書かれている、その部分は、どのように「イエス・キリストを証し」しているのか、という点が不十分でした。

    自己紹介でも触れましたが、私の基本的な聖書解釈の立場はブルトマンです。リベラル派からは「古い」と言われ、福音派からは「過激」と言われるかも知れませんが(笑)

    ですから、旧約の中で直接イエス・キリストを証ししていると思えない箇所からも、「非神話化」と「実存論的解釈」によりイエス・キリストを証しする福音のメッセージを読み取ることは可能だと考えています。

    もし、そのような箇所から福音(福音=イエス・キリストの証言という意味で)を読み取れないとしたら、教会の中で、旧約のそのようなテキストから説教ができないことになってしまいますが、実際は、聖書のどのような箇所からも説教は語られ続けています。誰もがブルトマンの立場をとるとは思っていませんが、多かれ少なかれ、また、意識的であれ無意識的であれ、誰もがある程度の「非神話化」を経て聖書を解釈しているのではないかと、私は個人的に思っています。

  4. 一重まぶたさん、おはようございます。

    ヒラぴゃんと申します。
    現在は福音派の教会(日本同盟基督教団)に所属していますが、生まれも育ちも日本基督教団なので、信仰的にはリベラル(新正統主義、聖書解釈の立場はブルトマン)です。

    ひょんなことから、ありのパパさんとブログで意見交換をするようになり、立場を超えて意見交換をしています。リベラル派と福音派・ペンテコステ派の垣根を超えて、お互いに偏見を抜きにして、卒直な意見交換を続けていけたらいいなあ、と願っている者の一人です。

    何卒、今後ともよろしくお願いいたします。

    一重まぶたさんの書き込みを読ませていただきました。

    一重まぶたさんはコメントの中で、聖書は「僕自身は、むしろイエス・キリストを証しているとすら思えません」と書かれていますが、この続きを読む限り、この方がここで言われている聖書は「旧約」に限定されていると思います。
    (新約聖書は、その執筆目的がイエス・キリストの証言そのものなので、この点に関しては議論の対象から除外します)

    御存知のように、「旧約」の中に、イエス・キリストを読むのは一般に「予型論的解釈」と言います。新約の中で旧約が引用されている場合は、この予型論によっています。中には、現在の聖書学から見れば、かなり強引な引用や解釈も見受けられます。

    確かに理性的に考えれば、主イエスが生まれる以前に書かれた書物の中に新約の「イエス・キリスト」を見出すのは「無理」があるので、一重まぶたさんが「旧約聖書がイエス・キリストを証ししているとは思わない」というのは理解できます。

    ただ、旧約の時代からメシア待望はあったわけで、旧約の諸文書が書かれ、現在の形に編集される過程において、将来現れるであろう救い主を待望する思想は当然のことながら織り込まれています。ユダヤ人が持っていた、そのメシア待望の希望を、イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンの立場から読むと、旧約に書かれているメシアこそ主イエスなのだ、という解釈ができると思います。そういう意味で、私は、旧約もイエス・キリストを証ししている書物だと理解しています。

  5. ありのパパさん、はじめまして。
    一重まぶたと申します。
    リベラル派の信仰を持っているものですので、今回日記の中にあげられた考え方をしています。

    >①その証言を書いたのは、有限な人間なのですから、当然のことながら聖書には様々な誤りや時代的制限があるし、それは仕方のないことなのだ、という見方なのです。(引用ここまで)

    これは、本当にそうだと思います。
    ありのパパさんは、聖書を引用してその正当性を主張しました。
    しかし、「聖書」とはどこからどこまでが「聖書」なのですか?
    たとえば、カトリックでは聖書の外伝が存在します。(つまり、カトリックかプロテスタントどちらかが偽者になってしまいます)
    また、聖書には入れられず偽者として出回っている外伝が多数存在します。
    そして、残念ながら聖書の記述の中に「編集」が神の霊感によって行われたとする記述は存在していません。
    ですから、様々な誤りや時代的制限があるのは必然だと思います。



    ②聖書は、イエス・キリストを証ししている書物であって、歴史や科学の教科書ではないのだから、歴史的・科学的に誤りがあるのは別に問題なし、と考えます。(引用ここまで)

    僕自身は、むしろイエス・キリストを証しているとすら思えません。
    旧約聖書はむしろユダヤ人の自慢話と願望に過ぎないとさえ思えます。
    実際は違うのかもしれませんが、その他の同年代の歴史書と同じように、自分の民族を褒め称えて他の民族を貶めている。
    その書式の同じさに、その内容でなぜ真実だと逆に言い張れるのかがむしろ疑問です。


    ③もし、聖書が、そのまま客観的な意味で「神の言葉」であるとしたら、聖書を読めば、そのまま神様のこと、イエス・キリストの福音が伝わると思うのですが、実際には、聖書を興味半分で読んでも、退屈な宗教書にすぎないと思う人が大部分ではないかと思います。(引用ここまで)

    実際、聖書には虐殺や近親相姦、その他妻を他の男に差し出したりしています。(その全てが祝福されていますし)
    普通の人が読んだら興味をなくすのは当たり前だと思いました。

    • 一重まぶたさん、おはようございます。
      コメントをありがとうございます。管理人のありのパパです。
      早速ですが、年齢を書かれていましたので、そこのところだけ削除いたしました。
      神経質に思われるかもしれませんが、個人情報にあたりますので、念のためそのようにしました。
      ただし、一重まぶたさんの自己開示の精神ははっきりとこちらに伝わりました。

      これからもよろしくお願いします

  6. ありのパパさん。おはようございます。
    私にとって、核心をついた内容がアップされました。
    これに対して、どのような意見(賛成、反対を含めて)が寄せられるのか、非常に興味があります。
    感情的にならず、たくさんの反応があると良いのですが。
    今回は、私はいきなり参加せず、皆さんのコメントを読ませていただいてから、書き込みをさせていただこうかな、と思っています。
    よろしくお願いします。

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