聖書が言いたい最も大切なこと

ある人が「聖書の中で最も大切な個所はどこかと問われたら、それはヨハネ福音書3章16節である」と言いました。
この意見に異議を唱える人はいないと思います。

『神はその独り子であられるイエス・キリストをこの社会に遣わされ、十字架上で私たちの罪の身代わりとして死なせるほどに、私たちを愛してくださった。それはイエス・キリストを信じる人が誰であろうと、滅びることがなく、救われるためである。』

神の愛がもっとも大胆かつ鮮明に表されている聖書個所であると思います。
今日は皆さんとご一緒に聖書の中で最も有名な箇所と言われるヨハネ福音書3章を見ていきたいと思います。

1.『御子を信じる人は決して裁かれない』[18節]

この「決して裁かれない」とはどういう意味でしょうか?
罪犯し放題で良いということでしょうか。いいえ、決してそうではありません。
この本当の意味は、御子を信じる人は神様から必ず助けをいただくことが出来るということです。
人間関係ですと、いったん関係が悪くなると、その人からの助けを期待することは難しいことです。
修復するにも時間が掛かりますし、なかなか元のようには戻りません。
しかし神様との関係においては、そうではありません。
私たちが悔い改めるなら、すぐにも赦してくださり、関係は回復します。
そして神様から恵みと助けと祝福が絶えず流れてきます。

私たちは傷ついた親子関係を持つことが多くあり、その関係性を神との関係に投影させてしまいがちです。
それで一度(それとも何度も)失敗すると、自分の方から神に心を閉ざしてしまいます。
これは正しいことではありません。
なぜなら肉の親子関係を神との関係に投影するのではなく、神との関係を人間関係に投影させることこそ、聖書が教えていることだからです。

○御子を信じる者は決して裁かれないとは、決して神との関係は壊れることがないということです。

2.『御子を信じない人は、もう既に裁かれている』[18節]

この御言葉は多くの議論を読んでいます。
しかし文脈に従って丁寧に読んでいけば、必ず納得することが出来ます。
これの真の意味は「信じる者は裁かれ、信じない者は地獄行き。はい、それまでよ」と言うことでは決してありません。

自分では解決不可能な問題を解決するために、自分の無力を認め、神になら自分を救うことが出来ると信じるなら、だれでも力を得、知恵を得、救いを得ることが出来ます。
しかしいたずらに自分を偽って、「こんな問題、自分の力でどうにかすることが出来る」とうそぶき、神の助けを得ようとしないなら、その人は自分が選んだ結果を刈り取らなければならなくなります。
例えばアルコール依存症者なら、健康を害し、家族を苦しめ、会社に迷惑をかけ、友人たちは離れていきます。
これはまさに生き地獄です。
このような状態を指して、聖書は「もう既に裁かれている」と言っているのです。

多くの元アル中の方々は「何でもっと早く信じなかったんだろう」と言います。
その一方で信じることは自分の意志によるということもよく分かっているのです。

3.人間の自由意志の問題[19節]

なぜこんなにも素晴らしい神の救いを人々は受け入れようとしないかについて、聖書は理由を述べています。

①人間というものは、やっぱり自分を信じていたい存在であるということです。

子供の自立期において「だめ~、わたしがやる~」と言って聞かないことはよくあることです。
このようにして人は、親との依存関係を離れ、自立した存在となっていきます。
これは人間関係においては正しいことですが、この関係を人は神との関係にも適用させてしまいます。
すなわち「神なんか、私の人生に必要ない。私は自分の思うままに生きて行くことができる」という万能感が大爆発したかのような自画像を持ちます。

②人は、やはり罪を愛している存在であるようです。

もっと素晴らしいものが手に入ることを本当に納得するまで、今もっている物を手放そうとしないのが人間です。
たといそれが他人から見て、とんでもない物であったとしてもです。
ある人は酒を手放しませんし、ある人は覚醒剤を手放しません。
またある人は金銭を愛することを止めませんし、人を支配することを止めようとしません。
これらは皆、罪です。
キリストにある素晴らしさを体験することが出来るのは、キリストを信じた後です。
ですからキリストを信じない限り、永遠に素晴らしさを体験することはありません。
そうすると罪人である私たちには、永遠にキリストを信じる機会は巡って来ないことになります。
しかしいつまでもそのような状態は続きません。
なぜなら私たちがもっている罪(人によっては嗜癖)が、私たちの存在そのものを食いつぶすからです。
やはり人は苦しまないと、神の助けを仰がないようです。

③人は勇気を持たない存在であるようです。

昨日までやっていたことを、無自覚に今日もやり、明日も続けてやっていきたいと願うのが人間であるようです。
そんなことをやっていれば、いつかは破綻するのが自明の理であっても、やはり無意識にそうしてしまうのです。
今までやってきた生き方を止め、自分の無力を認め、神に頼る生き方を始めるには、勇気が必要です。
犠牲を払いますし、それでもうまく行く人間的な保証はありませんから、不安です。
こんなに犠牲ばかり多いのなら、今までどおりの方がよっぽどいいんじゃないかと考えるのが人間というものです。
しかし客観的にみれば、本人が「捨てる、捨てる」と騒いでいる物は大した物ではありません。
どちらかというとゴミみたいな物ばかりです。
それを宝物と錯覚しているところに問題の本質があるのかもしれません。

『その裁きというのは、こうである。光である神の御子キリストがこの世に来られたにもかかわらず、罪の結果である自分の行いが悪いので、その醜さが光の下で明らかにされることを恐れて、光の下に来ようとはせず、むしろ闇を愛したことである。』

◎自分の無力を認め、正直な心になって、「キリストなら、このどうしようもない私をお救いになることが出来る」と信じ、私たちの意志と生き方を神様の配慮(みこころ)に委ねる人生を送りたいものです。
祝福を祈っています。

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