新年明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
正月に、ありのパパがやることは、目標設定です。
そして何ヶ月もしないうちに(本当は何週間もしないうちに)、年初に決めた目標が守られていないことを知って「やっぱり駄目だった」と落胆し、次の年になると今年こそと、力むのがありのパパの年中行事でした(笑)。
世界最大の教会の牧師が、元旦礼拝で「今年こそ、聖書を読みましょう。」とアピールしていたのを覚えています。
聖書を読むこと自体は良いことですが、もし聖書通読したら成長できるとか、祝福されると考えているのなら、それは間違いです。
功利的な動機でやっても、まずうまく行きませんし、万が一うまく行ったら傲慢になると思います。
聖書通読は、自分が無力であることを認め、神になら自分を救うことが出来ると信じ、神の配慮に自分の意志と生き方を委ねることを決心した人が、もっと神の御意を知ろうとして読むものです。
決して祝福狙い・成長狙いで読んでも、うまく行くものではありません。
では私たちは、どこに焦点を合わせればうまく行くのでしょうか。
1.私たちの間にある神の全ての祝福を知ること。[ピレモン6節]
パウロはピレモンへの手紙の中で「あなたの信仰が働いて、私たちの間にある神の全ての祝福を知ることが出来るように」と言っています。
私たちが持っている信仰を働かせるとは、どういうことでしょうか。
①それは今もっている物質・環境・人間関係を神様からのプレゼントとして感謝することです。
②隠れた宝物を探すことです。その隠れた宝物は他のクリスチャンが持っています。
③人並みの幸せではなく、自分が納得できる幸せを得ることです。
2.キリストの完全な御姿に似るところまで成長することが私たちのゴール[6節]
どうやって、その目標にたどり着くことができるでしょうか?
①教育や訓練によって
この道は結局疲れ果ててしまう道ではないでしょうか。
羊に鉄兜(てつかぶと)をかぶせて、鉄砲をもたせて、訓練することの愚かさに気づかなければなりません。
羊は隊列を揃えて前進することさえ不可能な存在であるのです。
②祈りと黙想によって
結局、時間の無駄遣いに終わる道。
初代教会のエルサレム教会の人々は、十字架によって無代価で救っていただいたにもかかわらず、律法によって救われる道を歩むことを止めませんでした。
論理的に矛盾する行動であっても、習慣的な行動というものは中々変わらないものです。
変わることを拒否したエルサレム教会の人々は、結局救いからこぼれてしまいました。
これが現実なのです。
二千年前のエルサレム教会の人々を、私たちは笑うことが出来るでしょうか?
同じようなことをやっていないでしょうか。
心したいものです。
③キリストの生き方にならうことによって
真に成長することの出来る道は、日常生活の中で「このようなときキリストなら、どうされたであろうか」と常に自分に問いかける生き方であると思います。
日常生活の90%は自分の思い通りにならないことであると言われます。
その自分の思い通りにならないことに対して、ヒスを起こすのか、それとも「このような状況でどのように行動したら、神の栄光を表すことが出来るだろうか」と考えるのか、これが人生の別れ道です。
このような人生を送る人は、例え時間がなくて聖書を読む時間や静まって祈る時間がなくても、霊的命が枯れることがありません。
なぜなら、その人はキリストとご一緒に人生を歩んでいるからです。
(これは忙しいということを口実にして、聖書を読まないでいいとか、祈らないでいいと言っているのでは全くありません。どうぞ誤解なさらないように。)
3.他のクリスチャンを力づけること。[7節]
ピレモンが他のクリスチャンたちを力づけていることを知って、パウロは大きな喜びと慰めを得たと言いました。
クリスチャンの関心は、地域の壁を越えて、教団・教派の壁を越えて、国境を越えていく必要があります。
また関心を持つ領域も、信仰の領域に止まらず、社会福祉・政治・社会・文化・経済の領域にまで拡がっていくなら何と素晴らしいことでしょうか。
◎もし去年まで、行いに焦点を合わせていたために、うまく行かなかった方がおられるなら、今年からは有り様(ありよう)に焦点を合わせてみては如何(いかが)でしょうか。
焦点を正しいところに合わせているなら、必ず祝福されます。