パウロが書いた各地の教会への手紙の中で、エペソ教会に宛てた手紙だけが、叱責が含まれないと言われています。
ありのパパなぞは、叱責オンパレードとも言うべきガラテヤ教会に宛てた手紙が一番面白く、しっくり来るのはなぜでしょうか(笑)。
叱られるということは、生命的に重要な教えからの脱線があったことを意味しています。
そのため基本的な事柄を繰り返し述べて再確認をしています。
ありのパパにとっては、これが心地よく感じられるのです。
しかし聖書には『いつまでも基本の教えに留まっていないで、成熟を目指して進もうではないか』とありますから、ずっと同じ所に留まっていてはいけないのです。
まさにエペソ教会に宛てて書かれた手紙は、基本的な教えから脱線せずに信仰生活を送っていた人たちに宛てたものですから、応用編とも言うべき事項が多く書かれてあります。
①5章1節には『そういうわけで、父親に愛されて育った子供のように、何事でも父である神を模範としなさい。』とあります。
ここを読んで、ありのパパが真っ先に感じることは、「親に愛されないで育った者は、どうすりゃいいんだ!」ということです。
②親に愛されて育った子供は、何事につけ親のまねをします。
ある牧師のお子さんの問いかけに、お母さん(つまり牧師の妻)がこう答えました。
息子さんの「どんな大人になれば良いの?」という質問には「お父さんのような人になればいいのよ。」
娘さんの「どんな人と結婚すれば幸せになれるかしら?」という質問には「お父さんのような人と結婚すれば幸せになれるわよ。」
このように言ってもらえる夫はなんと幸せ者でしょうか(笑)。
しかしこれと反対に、親に愛されずに育ったり、または育児放棄されたり、虐待されて育った子供は、「親のようにだけは、なるまい。」と堅く思い定めて大人になります。
その結果、どうなるかというと、あれだけ親が嫌でたまらなかったのに、気が付くと自分も同じような人間になっているのです。
③結局愛されて育っても、愛されずに育っても、親のまねをするというのは同じであることが分かります。
ではどこが異なるかというと、アダルトチルドレンの場合はアンビヴァレンスな感情を持ちつつ無意識のうちに養育者のまねをします。
要するに「囚(とら)われ」です。
これを罪の奴隷と言います。
それに対して愛されて育った場合は、自発的(意識的)に養育者の模範に倣(なら)おうとします。
このとき自己一致しており、心に矛盾がないのでストレスも感じませんし、リラックスできています。
④ではどうしたら聖書が言うように、自発的に親に倣うことが出来るようになるのでしょうか?
それは親替えをすることです。
親に愛されずに育ったという事実は消し去ることは出来ませんし、親もまた自分の親に愛されずに育ったので、愛し方を知らなかったかもしれないのです。
ですから「私」のために命を捨てるほどまでに愛してくださったイエスを、心のうちに迎え入れ、私の新しい、真の親になっていただくのです。
⑤イエス様に新しい親になっていただくと、『父親に愛されて育った子供のように、何事でも父である神を模範としなさい。』との御言葉が俄然現実味を帯びたものになってきます。
なぜなら、あなたも父親(神様)に愛されて育っている子供なのですから、「何事も父である神を模範としなさい」という命令は有効であるのです。
◎親替えをするまでは、このような命令は過酷な命令に感じるのですが、親替えを済ました人にとっては喜びつつ実践できるものに変わります。
祝福を祈っています。
ありのパパさん、おはようございます。
今朝のブログを読んで思い出したことがあります。
うちの教会の信徒さんの息子さんが引き篭もりで、一時、北海道のある牧師先生のやっている更正施設でお世話になっていたことがあるのですが、その先生のメッセージテープをお借りして聴いていたら、その先生は「私のようになればいいんだ」と言っているので、思わず心の中で「お前はパウロか!」とつぶやいてしまいました(笑)
かなり自信に溢れた、しかし、子供がうまく更正しない場合は「なおらない原因は、子供やその親が悪い」というようなスタンスに感じられて、私はあまり良い感じは受けず、世間の評判ほどその先生を信頼することはできませんでした。
ヒラぴゃんさん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
パウロが「私に掛けられているお縄以外は、私のようになっていただきたい。」と言いきることが出来る強さはどこから来るのだろうかと思います。
思い込みと自意識の強さから言っているのなら、必ず恥を見ることになるでしょう。
でもまぁ、日本人クリスチャンがよくやる「私なんか、そんな者ではありません。」という謙遜傲慢も鼻につきますが(笑)。
私などは、そう言われるたびに心の中で「それは分かっているから、あえて言わなくていいよ。」と毒づいています。