民族的優越感

ルカ04:25~28

1.はじめイスラエルの民は、弱く、自信がなく、心細い民だったのですが、次第に変質していき、自信満々と言うか、鼻持ちならない思い上がった傲慢な民となりました。

それでイエスは宣教開始直後に自分の郷里の人々に「自分たちは神の民だから神の恵みを受けて当然と考えるのは勘違いも甚(はなは)だしい」と仰ったのでした。
それは地元の人々の激烈な反応を引き出しました。
なぜでしょうか?
それはそこがイエスの郷里であり、お互い気心がしれた同士であり、イエスのメッセージが心に入りやすかったからだと思います。
このことが逆にマイナスの反応を引き出したのでした。
引き出されたものは何でしょうか?
それは民族的優越感です。
自分の真の姿に気がつかないとき、個人も民族も傲慢に陥ります。
また反対に自分の姿だけ見て、神の憐れみに心を向けないとき、卑屈になります。

2.我が国が敗戦直後は卑屈になり、戦後60年経ったのちは傲慢になったのは、このような理由からです。

戦争に負けたとき、神の憐れみによって国の滅亡を免(まぬが)れることが出来たにもかかわらず、神の憐れみに心を向けようとせず、「もう何もない。頑張るしかない。」と思い込みました。
それで今度は国が神の憐れみの故に豊かになると、「自分たちは一流国になった。もう謝る必要はない。」ととんでもない勘違いをするようになりました。

民族的優越感を持ったままでは、個人も、国家も、神の救いに預かることは決して出来ません。
なぜなら民族的優越感を持った人は、神に自分を救ってくださいとお願いしようとは考えもしないからです。
彼らが神に求めるのは、せいぜいご利益か、幸福製造機に過ぎません。

3.イスラエルの民は二千年間、神に救ってくださいとお願いしませんでした。

求めたのは単なるご利益に過ぎませんでした。
我が国も、毎年の正月には国民のほとんどが神社に参拝するのですが、そこで求めるものはイスラエルの民と同じく「救い」ではなく、ご利益に過ぎません。

人々がご利益ではなく、救いを神に求めるようになったとき、それがリバイバルです。
我が国の政治・経済・社会を注視していると、神の時が近いように思われますが、皆さんはいかがお考えでしょうか?
私たちクリスチャンは、全てを御支配なさる神様に、愛する同胞が救いを求めるようになるのを願い求めなければなりません。

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