1.新約聖書の中にガラテヤ書というパウロによって書かれた書簡があります。
そのガラテヤ書の中には、パウロがペテロを教会員の前で叱りつけたということが書かれてあります。
その理由はペテロがエルサレム教会からやってきたクリスチャンを恐れて、異邦人と一緒に食事をするということに象徴される異邦人との交わりから遠ざかったのが原因でした。
このエルサレム教会からやってきたクリスチャンとは、ユダヤ人でない人々(これを異邦人と呼びます)であっても、キリストを信じたら律法を守らなければならないと主張する人々でした。
どうしたらこんなおかしな主張が出来るのか、頭をかち割って中身を見てみたい気がします。
しかし、この人たちは気狂い扱いされるどころか、異邦人クリスチャン達も影響を受けて律法を守り始めたのです。
「なんでやねん!お前、アホか!」と皆さんは思うでしょう?
このような危機的状況に一人で対抗したのがパウロであり、それが前記のペテロへの叱責に繋がりました。
2.ペテロには少なくとも二つの失敗があったことが聖書に記されています。
聖書に記されているペテロの一つ目の失敗は、捕らえられたイエスを否認したことです。
あらかじめイエス様に「お前には試練が与えられるが、お前は失敗する。しかしそれには目的がある。それは同じように失敗して心くじけた人々の気持ちが分かる者となり、その人たちを励ますことである。」と言われましたが、自分自身が迫害に対して無力であることを知らなかったペテロは大言壮語します。
しかし、この大失敗はペテロが使徒職を全うするための基礎となります。
そうであるのに、なぜ再びペテロが人の目を恐れ、退いたのかについては様々なことが言われています。
ありのパパが推測するのは、ペテロの中には人の目を恐れる村社会意識というものが心の深いところにあり、それが神を恐れる心よりも優勢になったのだと考えています。
3.どうしたら人の目ではなく、神を畏れて生きて行くことができるのでしょうか。
a.常に建前と本音を一致させることです。
パウロはペテロに、こう言っています。「あなたはクリスチャンになったということで、実際には一般のユダヤ人のような律法を守る生活をやめてしまっているのに、人には律法を守るように言うのか。」[ガラテヤ2:14]
要するにペテロはこの時点では、偽善的な生活をしていたということです。
私たちの社会でも、「外面(そとづら)と内面(うちづら)が違う」というようなことが良くあります。
しかし常に本音と建前を一致させる努力を続けていないと、その偽善的行為からサタンが入ってきます。
パウロははっきりと、このような偽善的行為をする人が天国に行くことはないと言っているのです。
このパウロの基準からすると、もしペテロが悔い改めなかったとするならペテロも天国に入れないということになります!
万人救済論者もビックリの厳しさではありませんか。
b.小さな妥協をしないことです。
これはどういうことかと言うと、最初は異邦人クリスチャン達と交わりをもっていたのです。
しかし偽クリスチャンがやってくると、恐れました。
この一番初めの段階で、はっきりと態度を表明すべきでした。
それをしなかったばっかりに、ずるずると流されてしまいました。
私たちには初めの誘惑を退ける力があります。
しかし二番目・三番目の誘惑を退ける力は与えられていないのです。
ですから、いつでも初めの誘惑を退けなければなりません。
そうするなら、私たちが罪に負けることはないのです。
c.御霊に満たされ続けることです。
人の目を恐れる村社会意識というものは、生きている限りなくなることはありません。
常に心を見張って、村社会意識が自分自身を支配しないように気を付けているほかはないのです。
ありのパパの全くの推測に過ぎませんが、この事件の後でペテロは、一番目の失敗のときの、自分をじっと見つめてくださったイエス様のお顔を思い出して、大声で思いっきり泣いたのではないでしょうか。
そしてもう一度悔い改め、おやさしいイエス様の御胸に自分の顔をうずめ、イエス様の自分への言葉「あなたは、これらの人(ユダヤ人偽クリスチャンを恐れる心)以上に、わたしを愛しますか?私の羊(異邦人クリスチャン)を飼いなさい。」を思い起こし、聖霊に満たされ、献身を新たにしたのではないでしょうか。
◎神よりも人の目を恐れる村社会意識が、世界中で一番強い国はどこかご存じでしょうか?
現代において村社会意識が一番強いのは、日本だと思います。そう、わが国です。
ペテロの事件は人ごとではありません。
これと同じことを日本の教会は戦前・戦中行ってしまったのです。
人ごとだと思っている限り、自分のこととして学ぶことはあり得ません。
ペテロの失敗は私たちのためです。
教訓を学びたいものです。