キリスト教が他の宗教と最も異なっている点に、「命の水の川」の教えがあります。
命の水の川とは何でしょうか?
イエスは『誰でも渇いているなら、わたしの所に来て、心の渇きをいやす水を飲みなさい。そうしたら飲んだ人の心の奥底から、命の水が川となって流れ出るようになる』と言われたのです。
「わけ分からん。口から川が流れるのか。口川ダムか!」と言わないでください(笑)。
今日は皆さんとご一緒に、命の水の川について考えてみたいと思います。
1.どうしたら自分のうちに、命の水が川となることが出来るか?
①自覚しているかどうかが鍵。
『だれでも渇いている人は』とイエスは言われました。[ヨハネ7:37]
「渇いていない馬に水を飲ませることは出来ない」という格言があります。
アルコール依存症の方々が仰ることに「心の渇きをいやすために酒を飲んでいた」というのがあります。
しかしそのことを公言することはなかったし、その時は自分でも自覚がなかったようです。
どんな問題であっても、その必要を覚えることが転機となります。
「自分は渇いている」と自覚しない限り、たとえ神であっても、あなたを助けることは出来ません。
②イエスのもとに行くこと。
『わたしのもとに来て、心の渇きをいやす水を飲みなさい』
渇きを自覚したあとは、イエスのもとに行くことです。
イエスのもとに行くとは、どういうことでしょうか?
イエスのおられるところに行くということです。
それは(本当の意味での)教会ですし、スモールグループであるかもしれません。
③あとは神様がしてくださる。
『私を信じる人は、聖書が教える通り、その人の心の奥底から命の水が川となって流れ出るようになります』
渇きを自覚し、イエスのもとに行って水を飲むなら、あとは神様があなたの心の奥底から命の水が川となって流れ出るようにしてくださいます。
2.命の水の川とは何か?
①それは聖霊の体験であること。
『これはイエスを信じる信者が、あとで受ける御霊のことを言われたのである』[39節]
聖書が証するように、これは聖霊の体験であるのです。
カウンセリングの世界にかかわっていると、何でもかんでもカウンセリング的理解にとどまってしまう危険があります。
気を付けなければなりません。
②それは内住の体験ではないこと。
キリスト教会の中に、この聖霊の体験を御霊の内住と同一視する人々がおられます。
しかし御霊の内住は、救いのときに神が私たちにしてくださることです。
ですから聖書のどこにも「御霊の内住を求めよ」とは書かれていないのです。
③それは救いの体験のあとに来るキリスト者としての第二の体験であること。
今まで見てきたことを勘案すると、命の水の川が信者の心の奥底から流れ出るようになる体験は、聖霊のバプテスマを指していると考えることが出来ます。
3.霊的体験と心の問題の関係
①霊と心を切り分けるのは、聖書の教えではない。
「霊と魂を切り分けることがキリスト者に必要」と教える人がおります。
これは聖書に忠実な教えであると言えるでしょうか?
ありのパパは、聖書が警戒するように教えているグノーシス主義の影響のもとにある教えであると考えます。
聖書は『人は霊と心と体の三つによってなるもの』と教えています。
これは人は三つの部品からなっているというのとは全く違うことです。
霊と心と体という三つの性質が不可分のものとしてなっているのが人間であると、聖書は教えているのです。
②心の必要と霊的必要は同一であること。
心が渇くというのは、精神的な問題であり、命の水の川とは霊の領域で起きることです。
しかしイエス様は、心の問題を解決するために、霊的な恵みを求めるようにと言われているのです。
③焦点を心の必要に当てるべきこと。
現代のキリスト教会では、現代思想の影響を受けて、霊と心と体をきっちりと分けて考えることが当たり前のようになっています。
すなわち肉体の病気になれば病院に行き、精神的な病気になれば精神科かカウンセラーに掛かり、霊的な問題だけが教会が扱う領域であるように思っています。
しかし統合的存在である人間から、体の問題と心の問題を切り離したとき、果たして教会が扱うべき対象は残っているでしょうか?
どこにも残っていないと思います。
これが現代において教会の宣教が振るわない真の理由ではないかと考えます。
人間を全人的存在として捉え直していくことが、聖書の信仰に戻るために、まずやらなければならないことであると考えます。
◎この問題についても初代教会の信仰、即ち聖書の信仰に立ち返ることが必要とされています。