私たちは当たり前のように、物事には原因と結果があり、現実を改善するためには、まず原因を分析することが先決であると考えています。
①ヨハネの福音書の9章には、イエスの弟子たちが、生まれつきの盲人の方を見て「この人が盲人なのは、誰が罪を犯したせいでしょうか?本人でしょうか。それとも両親でしょうか。」と的外れな質問をしたことが記されています。
このような質問が出てくる背景には幾つかの問題があります。
一つは自分の人生をしっかり生きていないから、他人の人生が気になるのです。
脇目もふらず自分の人生の馳せ場を走っていれば、人様がどうとかは目に入ってこないものです。
もう一つは人間というものは、どうしようもなく律法主義的な存在であるということです。
たとえイエスの弟子であったとしても、これは変りがありません。
人が重荷を背負っていると、必ずそこには何かの落ち度があったと考えます。
そしてその人を裁いて安心します。
安心するとは、他人と自分を比較して、自分は大丈夫と根拠のない安心をするということです。
また自分が成功すると、それは神の恵みではなく(口ではそういうかもしれませんが)、自分が行った努力が報いられたのだと考えます。
そして自分を褒めたたえ、傲慢になります。
②これに対してイエス様は全く異なる視点から、弟子の質問に答えられました。
『本人に罪があるのでもなく、両親にあるのでもない。この人に神の御業がなされて、この人になされた神の御業を通して神の栄光が表されるためである。』
ビックリ仰天です。
これがイエスの考えであり、神のお考えであり、聖書の教えていることです。
③どんな困難があったとしても、それは神の栄光が表されるために存在する。
問題は色々あります。なんだって良いのです。
毎日一回は「全ての問題は神の栄光が表されるためにある。」と告白したいものですね。
そして圧倒的な勝利者である自分を宣言したいと思います。
④真の奇蹟を体験した者は、世に勝つ者となる。
この癒された盲人が、当時の神学者であった律法学者・パリサイ人に弁明している記事を読むと、彼がいかに優れた論争者であったかに驚嘆せざるを得ません。
ユダヤ教の指導者たちが、詭弁を使っても、その罠に陥りません。
普通は『イエスにでなく、神に栄光を帰することを忘れないように』などと言われると、自分が今から言おうとすることを無意識の内に修正してしまうものではないでしょうか?
しかしこの人は違いました。
『あの方が悪い方かどうか私は知りません。ただ一つのことを知っています。それはかつて私は目が見えなかったのですが、今は目が見えるということです。』
彼は自分が癒されたという誰にも否定できない体験から瞬時も離れることがありませんでした。
自分の強みは何かを知っていました。
そしてその強みを最大限に活用しました。
私たちも心したいものです。
⑤私たちは、心のどこかで「何でこんなことが自分の身の上に起きたのだろうか?」と問いかけていないでしょうか。
それに対する答えは「あの時、こうすれば良かった」「あの人に問題がある」「解決することは出来ない」など、およそ否定的なものです。
しかしイエスは、こう言われます。
『あなたに問題があるのでもなく、あなたの周りの人に問題があるのでもない。ただあなたに神の御業がなされて、それを通して神の栄光が表されるためである。』
あなたはどのようにお答えになるのでしょうか。
「そんなこと信じられません」と仰り、今までどおりの人生が過ぎていくのでしょうか?
それとも「わかりました。イエス様、どうぞわたしの抱えている問題を通して、あなたの栄光を表してください。その覚悟と準備は出来ております。」と申し上げなさいますか?
祝福を祈っています。
いつもこのブログに励まされ、自分の考えを整理させて頂いてます。ありがとうございます。
私も最近まで、深く悩みと悲しみを抱えていて、些細なことですけど、嘆く時はきっと自分が罪深いからだとかその結果だから我慢しなければとか思いながらただ泣いて過ごしていました。
神にただ謝ればいいと思っていました。
でも、自分の中にある根本的な空洞とそれゆえに見えなかった罪に気づかされ、ようやく自分の何かを少し変えていただいたと思います。
その時、今までずっと悩み、嘆いていた事もこれから神様に用いられる準備だったような気がしました。
そして、実際に同じようなことで悩み嘆く友人を強く励まし、お互いに神様の力を感じる事が出来ました。
それは、自分が苦しみを通っていなければできない事でした。
悪ですら良い事のために用いられる神様の無限の力にただ感謝をするばかりです。
これから何があっても、神様のご計画に従いたいと最初の一言が言えるようになりました。
これから「従います」と力強く言えるよう助けてもらうところです。
冬猫さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
「全てのことは、神が祝福の道具として用いるためにある」と信じて、人生を歩みたいものですね。
またコメントしてください。
パパさま 今晩は、励ましのメッセージ感謝 申し上げます、おすすめ通り
今日より、わたくしも、
全ての問題は神の栄光のために と 声にだして告白することに致します。
人の災難や不幸を見て その原因を 本人や先祖の罪に由来するものである そう断定する宗教家、霊能者 星占い師たちの脅迫に どれだけ多くの人びとが 悩みと恐れを 感じてきたことでしょうか。
その恐怖と不安を除去し幸福を提供すると称する詐欺師たちの 勧誘に乗ってしまい、大切な お金と人生を浪費 させられている、方々が未だに 沢山いらっしゃいます。
そんな人たちに、このイエスさまのメッセージは、大変励ましになります 今まで誰も言わなかったことをよお言うて くれはった と 心から感謝しております。
キリスト教界でも阪神淡路震災の とき これは神の裁きです そう発言した 福音派の某牧師がおりました。えげつない、おっさんヤナア と こちらでは大ブーイングでした。
罪→神罰→悔い改め→祝福
このようなシンプルな旧約的ヨンコマ漫画の単純な構図で、人の災難を分析する牧師 自分は 大変こわいです。
シロアムの搭が倒れ下敷きなって亡くなられた18人は あなたより罪深いと思うか と イエスさまが 問われたとき…そんな滅相もございません、むしろ
わたくしのほうが、はるかに罪深いかもしれません。犠牲になられた方々に対し心からお悔やみ申し上げます。
と答えるのが、全うな人間の姿ではないでしょうか。
岡田さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
そうですね。福音派といわれる人々の発言に首をかしげることも、ごくたまにですが、あります。
そして実はわたしの中にも、軽々しく人を裁いてしまう傾向があります。
この問題の根源的な理由は、人の痛みが分からないということに尽きると思います。
苦しんでいる人の苦しみが、自分の苦しみであるなら、どうして「これは神の裁きである」などと言うことが出来るでしょう。
またコメントしてください。お待ちしています。