1.パウロは自らは超自然的現象を通して救われたにもかかわらず、パウロ自身は論証による伝道を中心に行いました。
①使徒の働き9章20節から25節を見ますと、短期間のうちに回心者を獲得したことから見て、かなり効果的であったようです。
人の自然なありようとして、自分が救われた方法を、人を救いに導くときに用いるものです。
たとえばトラクト(キリスト教の小冊子のこと)によって救いに導かれた人は、自分が伝道するときにやっぱりトラクトを利用するものです。
また聖書研究会を通して救いに導かれた人は、やっぱり友人を聖書研究会に連れて行こうとするものです。
同様に、ゴスペルで救われた人は、‥‥‥(以下省略)。
②しかしパウロはそうしなかったのです。
路傍に立ち、大声で「稲妻のような光を受けよ。天からの神の声を聞け!」と叫ばなかったのです。
それどころかイエスがキリストであることを聖書から論証したのです。
その結果、驚くほどの成果が上がり、多くの人が救いに導かれました。
2.ありのパパが力の伝道を推奨するからと言って、それだけを盲信しているのではありません。
①私たちは実際的である必要があります。
伝道の対象である人々は一体どんな人たちなのか?
目の前の人々のニーズは何かを知り、それを満たすことを通して福音を伝えるべきでしょう。
若い人たちに老後の備えを語っても、あまり役に立ちません。
それよりもこの長い人生を有意義に生きるにはどうしたらよいのかを語る方が効果的だと思います。
同じように老人に、成功的人生の法則を語るよりも、死への確実な備えとは何かを語った方が良いと思います。
②多分パウロはユダヤ人にとってもっとも必要なのは、イエスがキリストであることを論証することだと判断したのでしょう。
その結果、それはニーズを満たすことができたので、当然結果もついてきたのです。
③私たちはどのような伝え方をしているでしょうか?
「いや~、近頃伝道してなくってさぁ。」と言う人もおられるでしょう。
そのような方々も効果的な方法が分れば勇んで伝道なさるようになるかもしれません。
ただ方法が分らないので、いつしか伝道することをやめてしまっただけかもしれないのですから。
3.人が救いに至るには、①知的領域、②霊的領域、③心の領域の三分野で、神様のお取り扱いが必要です。
①イエスがキリストであることが分れば信じる人たち。
ありのパパがそうでした。子供の頃から神がおられることを疑ったことはありませんでした。
ただその神は、どのようにして私たちに現れてくださるのかを知らなかったのです。
そのような時、一冊のトラクトが届けられ、イエスこそキリストであることが簡潔にそして論理的に書かれておりました。
これをきっかけにしてありのパパは信仰に入りました。
案外このような種類の人々は多くいるものです。
②霊的なものに関心があったり、反対に毛嫌いしていたり、どちらにして霊的な世界に関心を持っている人々。
このような人々にこそ、力の伝道・いやしと印と不思議と奇蹟が伴う伝道が有効でしょう。
この場合はすぐにも御言葉を打ち込むことを忘れてはなりません。
そうしないと劇場観客型の信仰者に一直線ですから。
③心に重荷を抱え、解決できず苦しんでおられる方々。
「心に恐れあらば、イエスに話せよ。心にもだえあらば、イエスに話せよ。イエスに話せ。イエスに話せ。イエスに話せよ。思案せずに何事をもイエスに話せよ。」という聖歌があります。
ありのパパはこれを繰り返し歌いましたが、ではどうしたら主がその重荷を取り去ってくださるのかを知りませんでした。
本当にみじめな者でした。いまでもそのときの自分を思い出すと、泣きたいような気分になります。
ですので多くの苦しむ方々に「解決の道はここにある。」と教えて差し上げたいのです。
もちろん自分の得意・不得意があります。「私、いやしの賜物持ってないし。」と言われる方もおられるでしょう。
しかしたとえあなたが医者でなくても、道端で怪我をしている人がいたら応急処置をしてあげないでしょうか?
自分に出来ることは何か。分(ぶん)をわきまえて、出来ることをやればよいのです。
応急処置に過ぎないとしても、それが命を救うこともあるのですから。
祈り:私たちの伝道を通して多くの方々が救いに導かれますように。