今日は日曜学校でよくお話されるバラムという占い師の話です。
バラムの記事を読むと、日本人的感覚から言うと、これのどこがいけないのかと思ったりもします。
しかし聖書語句辞典で「バラム」と引くと、出てくるわ出てくるわ、バラムの悪口オンパレードです。
いわく「彼のようになってはならない。」「彼の道を歩んではならない。」
どうやらイスラエルの人々にとっては「バラムのようになる」という言葉は絶対的な総否定を意味する言葉であるようです。
1.神による警告
聖書は、わが国の大河ドラマのように、微に入り細に入り説明してくれません。
ただあったことを淡々と記しているだけですから、読む私たちが想像力をたくましくして、真の原因を探っていかなければなりません
①聖書がバラムのことを糞味噌(くそみそ)に言っている理由は、バラムの本音と建前が分離していたことだと思われます。
聖書に記されているバラムのセリフは「行きたくないけど、どうしましょうか?」というものですが、どうやら本当は金目当てで行きたかったようです。[第二ペテロ2:15,ユダ書1:11]
②神が行ってはならないというのに、何回も「どうしましょうか」と尋ねるバラムの本音をご存じの神は、行くことを許します。
しかしこれが神の積極的な意味における御意(みこころ)でなかったことは次のことから明らかです。
『なぜろばを三回も打ったのか。ろばの前に立ちふさがったのはわたしだ。あなたが行ってはならない所に向かったからだ。ろばの目にはわたしが見え、三回も方向を変えようとした。』[民数記22:32,33]
神はバラムが行かないように天使を送って進路を妨害したのです。
しかし欲に目がくらんだバラムは霊的に盲目でしたので、なぜロバが前に進まないのか悟ることが出来ませんでした。
③ロバがしゃべるという、リベラル派キリスト教が唖然とするような聖書箇所ですが、ありのパパには面白くて堪らない箇所です。
地の塵(ちり)から人が造られたのだとしたら、ロバが喋(しゃべ)るぐらいのことなど何でもありません。
2.私たちにとってのロバとは何でしょうか。
目に見えるロバだけがロバではありません。
ここで言うロバとは、私たちが神の御意を理解せず、滅びに通じる道を進んでいるとき、私たちには見えないものが見える人たちのことを言います。
この人たちには私たちに見えないものが見え、それゆえ私たちに警告を発してくれるのです。
しかし残念ながらバラムと同じように、欲に目がくらむと滅びへの道を一直線に突き進むのが人間であるようです。
戦前、日本の教会も同じことをしました。
神道原理主義政府の圧迫に負け、少しずつ少しずつ妥協しました。
そして気がつくと、国は滅び、民は死に絶え、周辺国には癒しがたい甚大な被害を与えてしまっていました。
では日本の教会には、ロバは与えられていたのでしょうか。
間違いなく与えられていました。
①内村鑑三の不敬事件
無教会派のクリスチャンであった内村は、天皇の写真(御真影)に積極的に敬礼することが出来ませんでした。
それを見咎(みとが)めた神道原理主義者によって、迫害され、教職を追われました。
無教会主義という、一風変わった教会論を主張する内村は、日本の伝統的な教会から見ると変わり者でした。
この時、彼を積極的に助けた教会はありませんでした。
②美濃ミッション日曜学校生徒の神社参拝拒否事件
日曜学校に通う女子生徒が集団神社参拝の際、一人だけ敬礼をせず、直立不動でした。
彼女は絶対に偶像礼拝を行いませんでした。(神様、いのちの冠(かんむり)をもって、この小さき者を祝福してください!)
この時マスコミを総動員して美濃ミッションへの激しい攻撃が行われましたが、この時もすべての日本の教派・教会は彼らを見殺しにしました。
教会人の内心は「おとなしくしていれば良いのに。こんなときに騒ぎを起こしやがって。」というものだったと思います。
彼らは露程(つゆほど)もこの事件がバラムを乗せたロバの役割をしていると悟ることが出来ませんでした。
③ホーリネス教会弾圧
神道原理主義体制の総仕上げとして、ホーリネス弾圧がありました。
教会人は自分が生き延びるのが精一杯で、同じ主にある兄弟のことなど知ったことではないというのが本音だったようです。
この時も「無学のただ人(ただびと)」であったホーリネスの教職が、主によって選ばれた神の警告を発するためのロバであることを気づくことが出来ませんでした。
○結局、日本の教会もバラムと同じように神の警告を無視して、滅びの道を一直線に歩みました。
もし彼らが自分の生命を差し出してでも、これら変わり者と呼ばれる人々、小さき者たち、無学のただ人を守ったとしたなら、日本も、日本の教会も、今とは全く違った姿であったろうことは確かなことであると思います。
(つづく)
ありのパパさん、おはようございます。
旧約聖書のバラムのお話を大変に興味深く読ませていただきました。
>「ロバがしゃべるという、リベラル派キリスト教が唖然とするような聖書箇所ですが」
この箇所は、以前、聖書をどのように理解すべきかという議論のときに私が例として持ち出した箇所ですが、私としては、事実としてロバがしゃべったとしたら、それが事実かどうかの議論は「ロバの言語中枢や発声器官の有無」というような生物学的な問題にまで発展してしまい、聖書本来の意味からそれてしまうのではないだろうか? それよりも、ここで大切なことはロバが警告を発したということの意味を問うことではないかと言いいました。
そして、今回のブログでパパさんは、まさに私が言ったとおりに、この聖書箇所が現代の私たちに伝えようとしたメッセージを取り次いで下さっています。パパさんの今回の(今回も)メッセージは見事だと思います。パパさんの今回のメッセージは、リベラル派である私にも何の違和感もなく心に響きました。(今回だけでなく、いつも心に響いたり、大切なことを教えられたりしています)
もし、パパさんが、ここでロバがしゃべったことを「科学的」な仕方で立証しようとしたら、きっと私は、パクッとくいついて、福音派とリベラル派の応酬が始まったと思いますが、そうならなくてちょっと残念(笑)
また、いつかそんな議論もやりましょう。
ヒラぴゃんさん、こんばんは。
コメントくださりありがとうございます。
「パクッと食いついて」のところで大受けしてしまいました(笑)。
○旧約聖書を現実の世界に適用するということをしない限り、だれも旧約聖書を読まなくなるでしょうね。
○「ロバが喋る」の件ですが(笑)、福音派の論理は「そんなこと当たり前」⇒「それをどのように適用するか」です。
リベラル派の論理はヒラぴゃんさんが仰る通りであると思います。
しかしこの論理構成であると、読者に与えるインパクトが弱くなり、次第に聖書を読む人がいなくなるのではないかとも思いました。
いかがでしょうか?(でも反論は結構です(笑))
今は日曜の夜は頭が倦(う)んでいますので、何を言われても考えることが出来ません((爆))。
今週は祝日がありますね。楽しんでくださいませ。では。