クリスチャンが持っている三つの特権

世の中の人々はクリスチャンに対してある一定のイメージを持っています。
それは「敬虔なクリスチャン」という呼び名からも想像がつきます。

「ありのパパさんは、ほんとにクリスチャンに見えないわねぇ~(笑)」と良く言われたありのパパにとっては、一度でいいから言ってほしい誉め言葉だったりします。
そう言われるたびに心の中で「ここ、ここ、良く見んかい!」と自分の心を指さす惨めさよ(泣)。
人からはこんなことを良く質問されました。
「クリスチャンというと、辛気臭(しんきくさ)い雰囲気の人が多いのはなぜか。」
なぜでしょうか?
聖書には、「常に喜べ。絶えず祈れ。すべてのことについて感謝せよ。」と書かれてあるのに、なぜ辛気臭いのでしょうか。
今日はそのことを皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。

1.今持っている信仰による救いが、未完成のものであり、救いが完成されるときに与えられるものがどんなに素晴らしいものであるかを知ることができるように。[エペソ2:18,19]

①リベラル派クリスチャンに対するイメージというと、聖書を学び、あるいは聖歌隊の奉仕をしているところを想像します。

福音派クリスチャンに対するイメージは、朝早く起きて祈り、聖書を読み、周りの人々にキリストの救いを語り、教会に未信者を連れてくるというものでした。
これらのイメージは皆、クリスチャンの地上における歩みに対するものです。
しかし聖書は「救いが完成されるときに与えられるものが、どんなに素晴らしいものかを知ることが出来るように。」と言うのです。
これは具体的には私たちの体、即ち肉体が、救いの完成のときには栄化された体になるということを指しています。
そんな夢物語のようなことを信じるんですか?はい、私は心から信じます。
これを信じない限り、信仰に力がありませんし、信仰生活も惨めなものになります。
これを棚に上げて、現代に生きる人にも理解可能なところで勝負しようとしても、それは無理は話ではないでしょうか。

②ある福音派のクリスチャンが事情があってリベラル派の教会に通っているのですが、その教会の牧師が「天使はいない」と言ったそうです。

その牧師は「現代人が信じられないようなことを言うことは出来ない。」と答えたそうです。
そこでその福音派信徒は「では神も、そういうことになりませんか?」と尋ねると、「神を否定するとキリスト教ではなくなるから。」と答えたそうです。
ありのパパはそのやりとりをお伺いして、怒りよりも可笑しさが込み上げてきました。
もちろんリベラル派の教会すべてが、そのように理解している訳ではないかもしれません。
しかしキリスト教から、霊的な事柄を除いていくと、結局かすしか残らなくなってしまうのではないかと思いました。
クリスチャンがこの世の歩みにおいて、この世の人々が持たない力強さを持って生きていくためには、救いが完成されるときに与えられるものが、どんなに素晴らしいものであるかを知っていることが、どうしても必要です。

2.クリスチャンが継ぐべき神の国が、どれほど栄光に輝いたものであるかを知ることが出来るように。

いわゆる「あの世」を信じている人はどのぐらいいるでしょうか。
「死んだら、それで終わり」と考えている人が、いかに多いことでしょう。
しかしもし本当に死んだら後に何も残らないなら、虚無感はあったとしても、死に対する恐怖を感じることはないはずです。
どんな無神論者であったとしても、死に対する恐怖があるのは、死んだ後に神の裁きが待っていることを本能的に感じるからではないでしょうか。
たとえクリスチャンであったとしても、天国の希望をもたない人は惨めな信仰者です。
来世における希望をもっている人だけが、この世において様々な困難や苦難があっても神の御意実現のために頑張り抜くことができます。
(来世の希望をもっていて、カルト化した奴はどうなるんだ!と言う声が聞こえてくるようですが、この問題はまた別です。)

3.私たちクリスチャンのうちに働く神の力が、どんなに大きなものであるかを知ることが出来るように。

さて、救いが完成されることも素晴らしいし、また神の国も素晴らしいのですが、今この地上で生きている生身の体を持っている私たちのうちに、神様が働いてくださる力が、どれほど大きいものであるかを知ることが、クリスチャン生活の鍵であるのです。
皆さんは、この自分の内側に働く神の力が、どれほど大きいものであるかを知っておられますか?
「お前は、どうなんだよ。」と言う声に対しては、私はこう答えます。
「はい、今体験しつつあり、これからもっと豊かに体験することを願い、ひたすらこの道を歩んでいく所存です。」

◎この世のものでないもの、すなわち神が与えてくださる、救いの完成と、継ぐべき神の国と、私たちのうちに働いてくださる神の力の偉大さを知ることができますようにと祈ります。

2 thoughts on “クリスチャンが持っている三つの特権

  1. ありのパパさん、こんにちは。ご無沙汰しています。

    今日のパパさんのお話の中で、天使の存在を信じないリベラル派の牧師のことが書かれていたのでコメントします。

    その牧師の気持は、同じリベラル派の信仰を持つ者として理解できるような気がします。
    超越的な存在としての「神」を、究極的に唯一の存在であると理解することで、天使や悪魔という超自然的な存在を「観念的な存在」としてしか理解しない(できない)ということではないかと思います。
    つまり、天使や悪魔を「超自然的・霊的な、リアリティのある存在」として理解することは、多神教的な信仰に陥ってしまう危険性をはらんでいるとう思いです。
    もちろん天使も悪魔も神とは区別された「被造物」には違いないでしょうが、目に見えない超自然的・霊的な存在ということで、神と同じ次元で理解(誤解)してしまう恐れがあるのではないか、ということです。
    それで、天使や悪魔をリアリティのある存在としてよりも、その存在の意味を具象化した存在(観念的な存在)として理解するということです。

    ちなみに、日本のリベラル派の大半が寄って立つ新正統主義の創始者であるカール・バルトは天使のリアリティを持った存在性を否定せず、しかし同時に、天使の持つ意味について以下のように考察しています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ヘブル書1章14節には「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされたのではなかったのですか」とある。
    すなわち天使は「仕える霊」であり、それはイエス・キリストとの関係において、奉仕するために、遣わされた──それが天使の本質である。

    天使は「霊であること」によって規定されるのではなく、特定の奉仕を果たすために「遣わされたもの」である。
    天使は、それ自身が神の霊ではない、世の審判者ではない、世界を創造したのではない。
    救いの歴史をも、世の歴史をも、どのような生の歴史をも支配しない。
    天使は、全ての地上的な被造物がそうであるのと同じように、厳格な意味で神の被造物──天における神の被造物なのである。
    彼ら自身天的な力であるとすれば、その時には、神自身の一つの力の代表者としてそうなのであり、神自身の一つの力の啓示の中で、実証の中で、そうなのである。
    彼らはまさに決して中心のところに入らない。
    彼らは中心のところを開けておく。
    彼らは、むしろ、中心のところを、ただひとりそこにいることができる方にたいして自由に開けておくところのものである。
    彼らは、ただ来たり、そして、神のこの自由のために気を配った後、再び去って行く。
    彼らは決して自分自身を、注意を引くものにしない。
    この証人としての奉仕こそ、天使の本質がある。
    天使という言葉のギリシャ語には、本来「天の」使いという意味ではなく、ただ「遣わされた人」との意味がある。
    イエス・キリストによって召喚された、地上の使徒たちが、自分たちの内なる霊的なあるいは人間的な力によって語り行動するのではなく、自らはただ「空洞」として、中心ではなく、非中心的実在であるのと同じく、天使たちも「天」にあってそのような使徒職の本質をもつ。
    したがって、「天使」という言葉のなかに含まれる、使者、報告を伝える物、告知をなす者、証言の遂行者という意味こそ、むしろ強調されなければならない。
    ところで、同じ神の被造物でありながら、天使と人間はそれぞれ相対する「優位性」を持っている。天使たちは、地的な被造物=人間とは違って、いかなる「自主独立性」も持っていない。
    それこそが、完全に神に所有されることによって、「聖なる非自主性」としてある。
    決して自主独立に、自分だけで存在し、行動しない。彼らはいかなる自分自身の歴史も、自分自身の目的も、自分自身の成功も持っていない。
    それゆえ、完全に神に属しているので、いかなる意味においても自分自身に属していないという点において地上の被造物以上なのである。
    一方、地上の被造物である人間は、神に属しつつも、他方、また自分自身にも属すことがゆるされる。
    有限性──歴史に先立つ場面と歴史のあとの場面から、歴史の中へと入って来ること。
    他者が、愛が、すなわち倫理的なものが問題となるのは、この地上の被造物の世界においてである。
    ここから神学における倫理学の問いがはじまる。
    それは天使にたいする人間の「優位性」、すなわち神の前での自由(Freiheit vor Gott)への問いである。
    それは、もし神が存在しなければ全てはゆるされている、という、被造物の神喪失による「出口なし」の地獄の自由ではなく、人間であることは、神の前での応答責任をとることを意味する、その「自由」の本質へと接近することだ。

  2. ヒラぴゃんさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    ヒラぴゃんさんのご説明をお伺いして、どのような背景で「天使否認論」が出てくるのかがわかりました。
    ありがとうございました。

    現実の世界では、様々な悪霊の仕業(これをどのように定義するのかはまた別の話です)が存在し、人々を苦しめているのに、これらの霊的存在がいないとすることは、霊的戦いを放棄することにつながります。
    これが西洋社会のキリスト教が無力である原因かもしれません。
    ピーター・ワグナーはこのような問題意識を持って、「聖霊第三の波」運動を始めました。
    私の問題意識は、そのピーター・ワグナーがなぜ脱線してしまったのかというところにあります。
    ですので、いつもそのことばかり考えていたのですが、今日はピーター・ワグナーがなぜそのように考えたのかの理由を知ることができたように思います。
    ありがとうございました。

    またコメントしてくださると幸いです。

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