1.今日は8月15日。敗戦記念日です。神道原理主義政府による無謀な戦争政策のため、国は滅び、民は死に絶え、周辺国には回復しがたい傷を与えてしまいました。
この日、投獄されていたホーリネス教会の牧師たちは解放されました。
ですからこの日は終戦記念・敗戦記念というのを超えて、福音主義キリスト者たちにとっては「解放記念日」でもあるのです。
この日、元来神から与えられた権利である身体の自由、移動・居住の自由、伝道活動の自由、聖書に基づいた説教をする自由が回復されたのでした。
しかし私たちキリスト教会は、自由を回復する働きに全く参加しなかったどころか、口をつぐみ、あまつさえ侵略戦争に協力したことを深く悔い改めます。
自由が回復されるまでに国の内外で多くの人の血が流されました。
この血は、もしキリスト教会が世間を恐れず、神の言葉を曲げなければ流す必要のなかった血であるかもしれないのです。
私たち福音主義キリスト者は歴史的に被害者でありつつ加害者でもあったことを認めます。
これは祖父の世代がやったことだと言ってはなりません。
神の御前では同じ民族・同じ信仰者の群れとして裁かれるのですから。
2.罪を認めることは勇気が要ります。
その勇気は天来のものです。勇気は愛から生み出されるのです。
お母さんが子供のためなら、自分の命はちっとも惜しくないと思うのも、お母さんが子供を愛しているところから来ます。
だから子供が自動車にひかれそうになったら躊躇せず自らを子供と車の間に投げ出すのです。
ですから勇気が欲しいと思ったら、直接勇気を求めるのではなく愛に満たされることを求めるのです。
ここで間違ってはならぬことは、自分自身が愛の人になるようにと願うのではなく、自分自身が神様にどんなに愛されているかを体験的に知ることが出来るようにと願うことです。
(もし愛の人になるようにとの願いであれば、その願いはあなたをして律法主義的な人にしてしまうでしょうし、何よりその願いはかなえられることがありませんから、あなたを神の愛を信じられない卑屈な人にしてしまうのです。)
3.ではどうしたら神の愛を体験的に知ることが出来るでしょうか?
救いの恵みも聖霊のバプテスマも、この目的のために有益です。
また聖霊のバプテスマのとき同時に与えられた異言で祈る賜物を用いた、神様との人格的交わりも神の愛を体験的に知るために有益です。
2001年8月15日は、ありのパパが神様に、どれ程深く愛されているかを体験的に知った日です。
忘れることが出来ない日です。
御言葉の絨毯爆撃がこれでもかと続くので息が出来ないと感じたほどでした。
それ以来、そのとき与えられた御言葉を黙想する日々です。
そうすると御言葉の理解がますます豊かになるのを経験するのです。
聖霊である神は、その人がどんな傷をもっているか、どんな生育歴の持ち主なのか、様々なことを勘案して働きかけてくださるのです。
だから聖霊である神の働きは一人一人みな違うとも言えます。
しかしその働きのうちに共通点があるのです。
①それは動機が愛だということです。
私たちを害するためでなく、祝福するために働いてくださるのです。
私たちに対して悪いことを計画しているのではなく、すべてを働かせて益となる祝福の計画を持っておられるのです。
②神は全能者である故、失敗がないと言うことです。
私たちの肉の親は良かれと思ってやったとしても理解や配慮が行き届かず、結局子供を傷つけてしまうということがあり得ます。
しかし神様は全能者ですから失敗がないのです。
アダルト・チルドレンであった者たちは、両親が今度は何をしでかすか怯えていなければならなかったのですが、親替えをした私たちにとっては全能者が父親なのです。
③信仰が必要です。
あなたに対する神のご計画は容易に理解できたり、納得できるものではないようです。
「神様、なぜですか?」と言いたいようなことも沢山あるのです。
しかし神の愛を信じて人生を歩もうとするなら、躾(しつ)けられていない自分を神様に明け渡して不服を言わないで神様とともに生きる決断が必要です。
イサクが父のアブラハムに「供え物はどこですか?」と聞きますが、父のアブラハムははっきりと答えません。
だまって父と歩くうちにイサクは、自分こそ、その供え物であることを悟ります。
その時、驚いたでしょうし、悲しんだでしょうし、不服も言いたかったと思いますが、イサクはただ供え物をささげる祭壇に横たわったのでした。
どれほどの信仰が必要だったでしょうか。
ここはマインド・コントロール牧師がよく引用する場所でもありますから警戒が必要ですが、それ以上にみこころを受け取ることがもっとも大切です。
結論:愛こそ、すべてです。結局愛がなければむなしいのです。
人生の終わりに「すべては空虚であった。」などと言わないですむために、生きている間に神の愛を受け取ることです。