昨日に引き続いて異言の問題を考えますが、今日は異言を伴わない聖霊のバプテスマを考えてみたいと思います。
3.聖霊のバプテスマには必ず異言が伴うか?
尊敬するペンテコステ教会の宣教師経験者であり、国内開拓伝道所の牧師であり、神学者でもある方は、こう申されております。
即ち、異言を伴わない聖霊のバプテスマはありえないから、いくら聖霊のバプテスマを受けたと言っても、その人が異言を語っていないなら、それは聖霊のバプテスマとは言えず、別物の体験であると言うのです。
大変論理的な帰結なのですが、多少論理の上滑りと言いますか、三段論法的な弱点が含まれているようにも思えます。
いくつかの可能性を考えてみたいと思います。
①異言が否定されており、異言を語ると教会を追い出されるような状況で、聖霊のバプテスマを受けた場合、無意識に異言を語ることを抑圧するということがないだろうか。
その場合、聖霊のバプテスマと異言の両方をいただいているが、外側に異言が出てこないという可能性がある。
②ありのパパは入信後4年目に異言を伴わない聖霊のバプテスマの体験をしました。
その時、確かに確信が与えられ、救いの経験と同じく、自分が聖霊のバプテスマを受けたことを疑ったことは一度もありません。
そうであるのに、異言を語っていないから、それは聖霊のバプテスマではなく、別の体験であると言われても納得することは出来ません。
静かではありますが強い確信であるので、人が「そうではない、違う」と言っても、心にさざなみが生じません。
どのように理解すればいいでしょうか。
神様は聖霊のバプテスマに異言を必ず伴わせてくださるが、人間の心理的抑圧などの理由により、異言を語りださない場合があり得ると、ありのパパは個人的には考えています。
そのような場合に、異言を語りだすために言語機能をコントロールすることをやめ、ろれつが回らなくなるにまかせる方法が有効であると考えます。
③では聖霊のバプテスマを受けいていないのに(御霊に満たされていないのに)、異言のみを語りだすことがあり得るか。
あり得るとする場合、異言を語りだすときに同時に聖霊のバプテスマを受けたと考えることが出来るでしょうか?
真正の異言を語りだした場合、同時に聖霊のバプテスマを受けたと考えられると思います。
しかしいつまでたっても、真正の異言であることに確信がもてない場合は、聖霊のバプテスマを受けていないこともありえると思います。
この場合、異言を語ったとしても、期待する結果を生みださず、いつまで経っても自立できず、伝道も出来ないままだと思います。
このようなことを防ぐためにも、聖霊のバプテスマを求めることを優先し、異言はそれに伴うものであることを強調するのが良いと思います。
そうしない理由は、ペンテコステ教会の指導者が教会成長の悪しき影響を受けて、異言を語った信者の数を自分の営業成績のように捉える傾向があるからではないかと推測します。
まさに目に見えるものにではなく、目に見えないものにこそ、信仰をおく必要があります。
まとめ
①異言を語ることができるように人為的に導くことの是非。
②人為的に導かれた異言には、聖霊のバプテスマが伴うか。
③異言の伴わない聖霊のバプテスマは、どのような場合でもあり得ないか。
以上の三点について考えてまいりましたが、異なった視点で考えるべきことを一つのこととして考える場合、論理的に混乱する恐れがあります。
しかし現実は、この三つのことが一度に起きており、これをどのように理解すればよいかが急務だと思われます。
十分に論理的に、聖書的に、神学的に整理できたとは言い難いですので、皆さんとご一緒に考えていくことができれば幸いです。
最後になりますが、聖書のどこにも異言を自ら語りだすことを支持する箇所はありませんし、命じている箇所ももちろんありません。
しかしだからと言って、そのように指導するペンテコステ運動が真実でないとか、全く人為的であると言うことも出来ないと思います。
なぜならそのやり方によって、間違いなく異言を語りだした人がおり、神との豊かな交わりに入れられたと信じるに足る人々がおられるのですから。
ありのパパさんこんばんは。
異言を語ることについて、パパさんのお考えを分かりやすく解説していただき、ありがとうございます。
問題は、異言という単一のことにとどまるのではなく、聖霊のバプテスマとの関係について論じる必要があるのだということが分かりました。
「異言」にしても「聖霊のバプテスマ」にしても、リベラル派ではあまり論じないテーマなので、この機会に色々と教えてもらおうと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
最初に、私の異言についての知識のレベルがどの程度のものなのかをパパさんにご理解いただいた上で、議論や質問に入りたいと思いますので、少々説明させていただきます。
まず第一に、「異言」や「聖霊のバプテスマ」について、今まで教会や神学校で(日本基督教団でも、現在の日本同盟基督教団でも)教理として教えられたことはありません。
従って、この問題についての知識は、個人的に本で読んで仕入れたものです。
ですからペンテコステ派の方から見れば、非体系的で断片的な知識に過ぎないと思いますので、いわば素人を相手にするようなつもりでお相手下さい。
この問題について、最初に読んだ本は、生ける水の川から出版されている、ラリイ・クリスティンソンの『異言』でした。
まだ洗礼を受けて間もない頃ですが、キリスト教書店でたまたま見つけて、いったい何のことだろうという興味半分で購入し、読んだのです。
それから、アッセンブリー教団の前身である日本聖書教会時代の牧師である山田盛彦先生の書かれた『聖霊を受ける秘訣』を読みました。
また、アッセンブリーの総理だった弓山先生の『聖霊論』なども読みました。
あと、芋づる式に、生ける水の川出版の本(『朝の九時』や『異言を語る人々』『カススマ運動の流れ』など)をあれこれと読んだり、また、カリスマ運動をリベラル派の視点から解説したカールペッパーの『カリスマ運動とは何か』のような本も読みました。
さらに、福音派の視点からカリスマ運動や第三の波運動を批判した本(『聖書の教えと現代の異言』『今日における奇蹟、いやし、預言』なども読みましたし、歴史的な流れを知るために、アッセンブリー教団で出している『ペンテコステ・リバイバル上下』なども大変興味深く読ませていただきました。
これら以外にも様々な立場から書かれた本(最近では『ペンテコステ神学』など)を読み、私なりに理解を深めているのですが、何しろ素人の独学なので、知識が断片的に偏っているのは、いかんともし難いと感じています。
また、これらの流れの中で、イエス之御霊教会について興味を持ち、あれこれ調べた結果をまとめてホームページ上で公開しています。
イエス之御霊教会については、一般の人が知りうる情報が少ないこともあり、私のホームページの、イエス之御霊教会のページには毎月400~500位の訪問者があります。
これも、ある意味でペンテコステ運動に多くの人たちが興味をいだいている証拠の一つかもしれません。
イエス之御霊教会は、教理的な点で、一般のペンテコステ派とは違いますが、ペンテコステ派のこれまでの歴史の中で現れてきた様々な問題点や課題が集約されている教団なので、これを研究することは有意義なものがあると自分では思っています。
前置きはこの位にして、本題に入りたいと思います。
ペンテコステ派の中でも、異言の位置付けについては様々な意見の相違があり、決して一枚岩ではありませんよね。
異言は、聖霊のバプテスマの唯一のしるしであると理解し、異言を語らなければ聖霊のバプテスマは受けていない、と考える人や、もっと極端に(イエス之御霊教会のように)、異言を語らなければ救われない、とまでいう人もいます。
反対に、異言は聖霊のバプテスマのしるしの一つであり、異言を伴わない聖霊のバプテスマもあり得るという立場も存在するのでしょうか?
パパさんの文章を読むと、パパさんは両者をうまく止揚しているな、という印象を受けました。
「聖霊のバプテスマのしるしが異言である」という理解はペンテコステ派の根本にあると思いますが、この命題の前後が入れ替わって、「異言が聖霊のバプテスマを受けたしるし」となり、ここから、異言さえ語れば、それはイコール聖霊を受けたことになるのだから、とにかく異言を語るようにさせよう、という論理が出てきて、テクニカルな異言への誘導という今回の私の提起した問題につながっていくのだと思います。
ところで、聖霊のバプテスマということの理解について、少し教えてほしいのです。確かに聖書の中には「水のバプテスマ」と合わせて「聖霊のバプテスマ」についての記述がありますが、両者の関係はどうなっているのでしょうか。
聖書に「バプテスマはひとつ」とあるように、私は、救いに関しては「水のバプテスマ」が最重要だと考えています。
それは、水のバプテスマを受けることにより救われるというのではなくて、水のバプテスマを受ける前提としての信仰告白のゆえに、水のバプテスマは重要性を持つのだということです。水のバプテスマを受けるときには「あなたはイエスがキリストであると信じますか」という問いかけがなされ、それに対して「はい、私はイエスがキリストだと信じます」と告白して、水のバプテスマを受けますよね。
聖書の中に「聖霊によらなければ誰もイエスをキリストと告白することはできない」とありますから、私は、ある意味で水のバプテスマは聖霊のバプテスマであるとも言えるのではないかと思います。
これは私だけの理解ではなく、私が育った日本基督教団の理解でもあります。
ただ、聖書を読むと、確かに「水のバプテスマ」と区別された「聖霊のバプテスマ」についての記述が使徒行伝などに書かれていますので、私の理解で全てが解決するわけではないということも承知しています。
そもそも、ペンテコステ派の「異言を伴う聖霊のバプテスマ」という教理は、前身であるホーリネス教会の「聖化」の教理を発展させたものであると思うのですが、ホーリネスの「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の四重の福音の中で、新生と「聖化」が区別されているように、ペンテコステ派においても「新生(水のバプテスマ)」と「異言(聖霊のバプテスマ)」は明確に区別され、人間の救いは「新生」にあり、聖霊のバプテスマは「クリスチャンへの力の付与」であり、これを受けなくても「救い」に関係はない、と私は推測しているのですが、この点はいかがでしょうか。
確かに、クリスチャンとして力強く歩んでいくためには聖霊のバプテスマは必要かも知れませんが、先ほど私が言ったように、クリスチャンは誰でも(リベラル派であっても)「イエスはキリストなり」と告白している以上、水のバプテスマと同時に聖霊のバプテスマも受けていると考えれば、リベラル派のクリスチャンの中にも、信仰の確信を持って、何物も恐れず宣教に励む人たちが大勢いるということの説明もつくと思うのですが如何でしょうか。
さて、パパさんは、「ハレルヤハレルヤハレルヤ」の繰返しによるテクニックとしての異言への導きについては批判的でありつつも、そのような場合でも真性の異言はあり得るのだ、と主張されています。
確かに、神様の業は人間の思いを超えたところで働かれますから、そのような人間的なテクニックさえも用いられる場合もあるかと思います。
ただ、一つ私が疑問に思うのは、「異言が聖霊のバプテスマの明確なしるし」であるのだとすると、「異言を語った人がそれによってこのように変えられた」というような変化の有無で、その異言が本物かどうかを判断するというのは本末転倒な感じがしなくもありません。
「しるし」であれば、それ自体が「しるし」であるはずなので、その「しるし」が本物かどうかを、異言を語った人の変化によって吟味・判断するのであれば、その人の「変化」の方が「しるし」となってしまうのではないでしょうか。
そもそも、異言はキリスト教に特有のものではなくて、他宗教でも見うけられる現象です。
実際、私は神学生時代に、ある人からGLA(「幸福の科学」のもととなった新宗教)の教祖、高橋信次がその教団のイベントのステージの上で語る流暢な「異言」を録音したカセットテープを聞かせてもらいました。
そこでは、GLA(ゴッド・ライト・アソシエイション)教祖の高橋氏や、その娘(2代目教祖)がベラベラベラと立派な「異言」をしゃべっていたのです。
そのイベントで繰り広げられるステージの内容は、いかにもうさんくさい、芝居がかった、子供じみた内容だったのですが、しかし重要なことは、キリスト教以外にも「異言」があるのだということを、この耳で聞いたことです。
また、私は直接聞いたことはありませんが、モルモン教でも異言を語るそうです。
そうなると、異言は、聖霊のバプテスマの明確な証拠とはなり得ないのではないかと思うのです。
その異言が神から来たものか、そうではなく悪霊からきたものなのか、あるいは単に人間の暗示にすぎないものなのかを吟味しなければならない、そのようなもの(失礼な言い方で申し訳ありません)が果たして「証拠」となり得るのだろうか、という疑問が私の心の中に常にあるのです。
長くなったので、今回はこの辺で終わりにしようかと思っているのですが、最後にもうひとつだけ、教えて欲しいことがあります。
使徒行伝2章のペンテコステの出来事の中で、弟子たちに聖霊が下ったとき、彼等は「異国の言葉」で語り出したとあります。
そして、弟子たちが語る言葉は、外国から来た人々に理解できた、とあります。
ということは、ここで弟子たちが語ったのは、いわゆる「異言」ではなくて、弟子たちが知らないはずの「外国語」だったということになりませんか。
知らないはずの外国語を語ることも「異言」の一種とみなされているようですが、果たして本当にそうなのかどうか、聖書にはその明確な答えはありませんが、なぜペンテコステ派では「外国語」も「異言」の一種と考えるのでしょうか。
それは、少しいじわるな見方をすると、そのように理解しないと、聖霊が下って異言を語ったという教理が成立しないからとも思えてしまうからです。
現に、初期のペンテコステ派の宣教師の中には、自分がこれから行く宣教地の言葉を少しも学習しないで、「異言の外国語」によるコミュニケーションが可能であると思い込み、実際に現地に行ってみて初めて、言葉が全く通じないことが分かって愕然とした、という例もあるようです(アッセンブリー中央聖書神学校の教理史の鈴木先生からいただいたレポートの中に書かれていました)。
これは笑い話のようですが、実は笑い話で済まないシリアスな内容を含んだエピソードではないかと思います。
長くなりました。
私が思うところを卒直に述べました。他意は決してありませんが、もし、パパさんの気を悪くさせるような失礼な個所がありましたらお赦しください。
今後も機会がありましたら、ペンテコステ派の神学について論じ合えるような内容のブログをアップしていただけると嬉しいです。
例えば、(ペンテコステ派に限りませんが)終末と再臨、奇跡の理解、創造論についてなど、リベラル派との理解の違いが明確な教理について、お互いに学び合うことができたらと思います。
ヒラぴゃんさん、こんばんは。
この問題をコメント欄だけでやりとりするのはもったいないと思います
それで提案なのですが、このブログでのやりとりを「日記」のほうにも転載したいのですが、なぜこの文章を書かなければならないかを読者の方に知っていただくためにも、ヒラぴゃんさんのコメントを「日記」のほうにも転載できれば、その理由が明確になると思います。
ブログにおけるヒラぴゃんさんのコメントの転載をお許しいただけないでしょうか?
転載はこの異言の問題と聖書観の問題に限ります。
「日記」読者さんは、福音派・ペンテコステ派の方が多いので、刺激が強いかもしれません。
そのため否定的な影響が出て来た場合は、即中止をいたします。
よろしくご検討のほどお願いいたします。
ありのパパさんへ。
はい。「日記」でもどこでも転載していただいて全然かまいません。
むしろ、それでこの議論への参加者の幅が広がれば(良い意味でね)、素晴らしいなあと思います。どうぞ、どうぞ、御遠慮なくバシバシ転載してください(笑)。
PS.私の書いている内容は福音派の方やペンテコステ派の人にはそんなに刺激が強いですか? パパさんと議論していると、ついつい力が入って、本音が出ちゃうんですよね。
ヒラぴゃんさん、こんばんは。
ご承諾いただき感謝をいたします。
原文そのままで(読みやすくするため改行のみさせていただきます)掲載いたします。
ではよろしくお願いいたします。
キリスト教革命に向かって、ゴー・ゴー!(うそうそ)
ははは。
こんばんは
わたしことば たらずでした 聖書の 原則をはずすと 異端になってしまいます
おっしゃるように異言の 前に 必ず 聖霊さまが 臨んで くださいます
コルネリオの家のものたちにも、まず 聖霊さまが お下りになり そのあとで 異言を話し 神を賛美しています
ですから 兄弟姉妹に 対しては
「なあキミも、聖霊のバプテスマ 受けて みいひん そしたら異言で祈ったり 歌ったり できるように なるんやで これは 一生 ただで つかえるんやで ウソちゃうで」
「 えーっ そんな ええ 話し あったんかいな なんで もっと はよ いうて くれへんかっん や わかった 聖霊さま あなたを歓迎します」
これが 理想的な ありかたでは ないでしょうか
いゃ~、本当に癒される~。
大阪弁は世界を癒す!
岡田ワールドがこれからの時代のキーワードになると思います。
少しも言葉足らずではありませんので、ご心配なく。
お邪魔しま〜す。
なぜ?お邪魔かと言いますと、私は、ずぅ〜とペンテコステ畑で育ちました(かれこれ20年)が、一度も、異言を話したことは無く、また、聖霊のバプテスマを受けているのかも、わかりません。
しかし、しかしですよ、私は、今まで、疑問等を持つと、聖霊様が、横に立って(私に現れて下さった、聖霊様の、お姿を絵に描けと言われれば、描けます。)、色々教えて下さいました。
例えば、敵(私に苦難を与える者)を赦すだけでなく、愛する方法。
今まで十分、苦難を味わって来たのに、さらに、熱中症で死んで、生き返らなければならなかった理由等です。
また、ある日目覚めた時には、聖霊様が、ポンと私に触れて下さっただけで、その日半日(敵なる人物が、何やら言いに来るまで)、内からどんどん喜びが溢れて来るという体験もしました。
さらに、さらに。あるきっかけで、神様を「アバ父よ」ならず、「お父ちゃん、お父ちゃん。お願いやし助けてぇな。」と、叫ぶように呼んでいたら、なんと、幻のうちに、主が、現れて下さったのです(これには、前触れがあって、お姿を見せて下さったのは、一度きり)。
これは、ヨハネ14の21の御言葉が、本当であることを、見させて下さったのですが、マタイの5章〜7章の御言葉を真剣に実践し、また、サタンの出先機関になっているテレビや新聞、諸雑誌等を捨てるなら、誰にでも、主は、御自身を現して下さいます。
また、世の終わりが近づいていることを、肌で感じる今日この頃ですが、大艱難の時代になれば、主の助けは、今まで以上に必要ですから、主は、大いに御自身を現して下さいます。
takaponさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
初めにお詫びしておくがあります。
このブログはニックネームでお願いしています。
実名はご遠慮ください。
それで今回は私が勝手にニックネームを付けてしまいました。
お許しください。
ご自分の好きなニックネームを付けてくだされば、こちらの方で今回のコメントのお名前も変更しておきます。
あと大変申し訳ないのですが、一部を削除させていただきました。
このブログは、特定の誰かが「こう言った」ということではなく、「私はこう考える。そしてあなたはどう考えるか。」を大切にしています。
どうぞ特定個人の表記はお控えくださるようにお願いいたします。
これからもよろしくお願いいたします。