①聖霊のバプテスマを受けたとき、同時に与えられた異言で祈る賜物を、私たちは活用しているでしょうか。
もしかして与えられたときは、物珍しさも手伝って異言で祈ってみたりもしたが、気がつくと飽きてしまい異言で祈ることをしなくなっていたという方もおられるかもしれません。
そのような方は、次の聖書の個所を読んでみてください。
『御霊もまた私たちの弱さを助けてくださる。私たちはどのように祈ったら良いか分らないのに、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる。』[ロマ書08:26]
このところをお読みになって、何か気づかれることはないでしょうか。
このところは私たちが自分でもはっきりと原因が分らない様々な問題行動について、内住の御霊にはその原因が分っており、私たちの癒しと成長のために、慰めをもって祈ってくださるということを言っているのです。
②養育者に尊厳をもって育てられなかった子供たちは、大人になってもセルフイメージが低いままです。
このセルフイメージが低いということが、青年期には致命的な悪影響を及ぼします。
あるお母さんが、他の子供たちがさかりのついた犬や猫のようにセックスに対してしまりがないのを見て、心配になりご自分のお子さんに聞いてみたそうです。
そうしたところ、そのお子さんは次のように答えたそうです。
「人は人。私はそんな人間ではない。私はそんなに安くない。」
価値ある者として育てられると、こうなります。
しかし多くの場合、こうはいきません。
なぜならほとんどの親がセルフイメージが低く、セルフイメージの低い親が子供を育てると、必然的に子供もセルフイメージが低くなります。
③ここに、呪いの連鎖を断ち切る神の賜物があります。
それが異言で祈る賜物です。
この異言で祈る賜物を何十年も活用し続けると、問題行動の原因がセルフイメージの低さであることを良くご存じの内住の御霊が、低い自己イメージの原因である愛されないで育てられたため、心の隠れたところにぽっかりとあいたすき間を神の愛で満たし続けてくださるのです。
そうして少しずつ少しずつセルフイメージが向上していくのです。
愛は交わりによってのみ受け取ることが出来、御霊である神が私たちの弱さを思いやり祈ってくださるとき、本当の愛を体験することが出来るのです。
ここに実際的な品性の実を結ぶ道があるのです。
これが異言で祈る賜物が与えられた理由です。
ありのパパさん、こんばんは。
異言の祈りの賜物について、このような説明は初めて聞きました。
心のすきまを神の愛で満たしていただけるというのは大変に魅力的ですね。
セルフイメージという概念と聖霊の賜物の関係について、このように分かりやすく説明されると、なるほどと思います。
ペンテコステ派以外では、ともすると興味本位に取り扱われがちな異言ですが、やはりそれが信仰の血肉になっている方の発言は説得力がありますね。
こんばんは、ヒラぴゃんさん。
聖書を読むときに、自分の体験と照らし合わせて読む作業が必要ですね。
それとともに、自分の体験を読み込むことによって聖書釈義が変更になることのないようにしなければなりません。
たとえば「異言は印である。」との理解はそのような視点で考えると、疑問です。
とするとそもそも神様はなぜ異言をお与えになったのかという点が問題になります。
そこで自分の体験と照らし合わせるということが出てきます。
この解釈ですと、異言はペンテコステ派のために存在するのではなく、人のために存在すると言えるようになるのではないかと考えます。
潔めはホーリネス派のために存在し、予定は改革派のために存在し、と考えていくと、ではリベラル派にとってのそのような教理は何になるのでしょうか?
しかしキリスト教の専売特許と言うものにろくなものはないなと感じています。
洗礼を受ける前に牧師先生に按手を受けたあと、異言を知らない時に、なんか口から出てくる気持ちになるのが不思議で、そのことを伝道師に告げたところ、じゃあ祈りましょうと言われトトトタタタ系の言葉が出て異言だと言われました。
求めていた時でも知識があったわけでもなく、ただ、その時期は聖書がいとおしく礼拝が楽しみで夕拝までいたり、賛美したりドップリ浸かっていたのを思い出します。
今思うと蜜月?のようなかんじでしょうか(笑)
さて、質問なんですが異言で祈る時いや理性では祈ってないんですが。
読書しながら、皿洗いしながら、何かをしながらでも、精神集中してなくてもただ、口だけ動かすようなことでもいいのでしょうか?
よく運転しながらやってたりします。
といっても、長い間封印していたようなところもあるのですが。
心は神様を思いながら見上げながら、するべきなのでしょうか。
処理班さん、こんにちは。
コメントしてくださり、ありがとうございます。
そうですね。それで構わないと思います。
神様を見上げながら出来れば、なお良いと思いますが(笑)。
またコメントしてください。
祈りには必ずイエス様のお名前を通す必要がありますよね。
異言の時はどうされてますか?終わった時に分かる言葉でイエス様の名前を言うべきなのでしょうか。
いつもフツっと途切れることも多いので。
ただ、普通の祈りでも途中で途切れることがあるので、今は祈りの最初にイエス様のお名前を言うのはどうだろうとも思っています。
いかがでしょう?
異言でも最後にはイエス様のお名前を言う必要がある。
イエス様のお名前は祈りの最初に伝えてもいいかどうか。
最後にイエス様の名前を入れないといくら祈っても無駄になると聞いたことがあるので…寝てしまう夜はどうしましょう…
冬猫さん、こんばんは。
コメントしてくださり、ありがとうございます。
「イエスの名によって」とは、どなたにお願いしているのかという問題です。
クリスチャンであっても、イエス様以外のものにお願いしてしまっている時がありますから、「イエスの名によって」という自分自身への確認が必要です。
ただ「イエスの名を入れないと、その祈りは無駄になる」とは、どこの宗教でしょうか(笑)。
それは聖書宗教ではないし、福音的キリスト教でもないと思います。
大切なことは、「私が神と共にいること」です。
「今日一日をイエスと共に生きる」と宣言してから、一日を始めてみては如何でしょうか。
そうしたらその日一日なしたすべてのことは、イエスの名によってなされるものとなるからです。
またコメントしてください。
ありのパパさん、おはようございます。
二度目のコメントをさせていただきます。
と、その前に、前回、神学的な立場を言う必要があったのですね。ごめんなさい。
それに関しては、カテゴリー分けの定義が分からないため、よく分かりません。
そこで、どんな事を信じているのか、また、バックグラウンドを、いくつか書き込ませていただくことにします。
1.聖書を神の言葉として、権威付けている。
2.三位一体の神を信じている。
3.イエスキリストを自分の救い主として、受け入れている。
4.信仰により、恵みにより、救わる、信仰義認を信じている。
(救われた後の、信仰生活を、自力の行いによって全うしようとしていた事を、今、自覚している。)
5.携擧は大艱難前に起こると理解している。
6.置換神学と万人救済論を否定する立場をとっている。
7.聖霊のバプテスマが、新生の時に起こる聖霊の内住とは別にあると思っている。
8.異言は否定しない。
9.現在通っている教会はカルバリーチャペルです。
福音派というのでしょうか、、、わかりません。
パパさんの記事に、「アメリカでは福音派の中にペンテコステ派が含まれる」と言うような事が書かれていたように記憶していますが。
あと、神学校に行った事のある姉妹に聞いてみた所、福音派とペンテコステ派の間ぐらいじゃないかしらという事でしたが、ますます分かりません。
週報には無所属と書かれているので、どこの教団にも属していないという事でしょうか、、それも又、よく分かりません。
10.以前、ペンテコステ派の教会に4年ほど属していました。
カルト化してきた(又は、初めからしていた?)と気づき、脱会しました。
今思いつくのは、こんなところです。こんなところでいいでしょうか。
カテゴリー分けは、パパさんの記事から、おいおい学んでいくつもりです。
さて、今日コメントさせていただくのは、聖霊のバプテスマと、異言についてにです。
以前は、「聖霊に満たされるという体験もあり、異言の賜物も頂いている。」と思っていましたが、なにせ、カルト化した教会で起こっていた事なので、今では理解に苦しんでいます。未消化のままです。
ここ二年ばかりは、その件について、完全否定しないまでも、封印をしてきました。
ありのままの自分を受容するという事に、意識をして信仰生活を送ろうとしていますが、そこから前に進めないような気がしています。
ありのままの自分を、存在として受容はしても、行いを肯定するわけではないんですよね。
御霊の実を実らせている、そんなクリスチャンになりたいと言う願いは、以前にも増して、ある訳です。
ただ、自力ではなれない。と言う事を、今、まざまざと実感させられているけれど、じゃあ、ならなくてもいいのかと言うと、よくなくて、やっぱりなりたいんです。
じゃあ、どうしたらなれるのかと言う事ですよね。
一度は封印した「異言を伴う聖霊のバプテスマ」という概念を、正しく理解して、求める必要があると考えています。
二年前は、脱会に際して、かなりの混乱、苦悩がありました。
色々な方のサイトを読んで「あれは、催眠術にかかっていたようなものだった。」と一応結論付けて、考えないようにしてきました。
本物の異言ではなかった、聖霊に満たされている体験もにせものだったと理解したわけです。
それ以来、口では、「私を聖霊で満たしてください。」と、型どうりの祈りをしても、体験を否定しているわけですから、実際は願っていなかったと言う事になります。
このごろは、ありのパパさんの、キリスト教に関する記事を読みあさっています。
3.の呪いの連鎖を断ち切る神の賜物。というこの記事は数日前にみつけました。その他の関連記事も読んでみました。
そして、聖霊について、聖霊のバプテスマについて、異言の祈りについて、真理を知りたいという願いが、日に日に大きくなっています。
ただ、あの4年間の出来事を、恥じる思い、認めたくない思いがあります。
思い出すと、いやな気持ちになります。つらいです。
聖霊のバプテスマ、異言での祈りが、ACの回復過程にも、信仰生活にも、(ヨルダン川を渡るさいにも)、どうしても必要な気がします。
必要で、神様があげたいと思っておられるものは、勿論、欲しいです。
もれなく、全部欲しいです。
あの4年間をどう理解し、把握し、消化していけばいいのか、、、
暗中模索中です。悶々としています。新たな絡まった糸が出てきた感じです。
突破口になるようなアドバイスがあれば、ぜひ、欲しいんですが、「それは自分で考えるんです。」とか、「聖書を読みなさい。」とか言う事になるんでしょうか。
ありのパパさんの説教が、いつの日か、音声とともにアップされるとどんなにいいでしょうね。
あくまで依存体質丸出しの、コメント、失礼しました。
現段階は、本音を言う練習中ということで、あしからず。
LOVE & ALOHA
God bless you.
COCOより
cocoさん、こんばんは。
コメントをありがとうございます。
○異言の賜物を求めるのは心の傷が癒えるのを待つのがよいと思います。
それからでも遅くはないと考えます。
○大切なことは目前の出来事を丁寧に扱いつつ、日々の歩みをしていくことではないでしょうか?
○心の傷が癒える時とは、無力であることが本当に分かった時であるとも言えます。
もちろん、誰も徹底して無力であることを分かる人はおりません。
生きている限り、万能感に悩まされることが誰にでもあります。
「異言で祈る賜物を用いての神様との人格的交わり」が万能感と結びつくのか、それとも無力を認めることと結びつくかで、クリスチャン生涯の有り様は全然ちがうものになります。
無力を認めることとは、悔い改めがはっきりするということに他なりません。
ですから悔い改めがはっきりしていれば、聖霊のバプテスマが与えられても、信仰が脱線する危険はありません。
あせらず、一歩一歩信仰生涯を歩みたいものです。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのぱぱさん、おはようございます。
お返事、アドバイスを、ありがとうございました。
肩の荷が、一瞬にしておりました。
「それからでも遅くない。」
新しいテープになりました。
本当にありがとうございました。
とても、うれしいです!
LOVE & ALOHA
GOD BLESS YOU!
COCO
cocoさん、こんにちは。
コメントをありがとうございます。
あせらず、たゆまず、日々の営みを大切に歩みたいものです。
またコメントしてください。お待ちしています。