1.英国で奴隷制度が定着しそうになったとき、英国メソジスト教会は奴隷制度に明確に反対しました。
反対の意思表示をするだけでなく、署名活動を行い、奴隷制度廃止の国会誓願を行い、これを実現する原動力となりました。
皆さんは、このような話を聞くと「そんなこと、あたりまえじゃん。」と思うかもしれませんが、有力な教会員の中に奴隷を雇っている者がいたりすると、牧師は遠慮してしまい、なかなか正論を言えないことがあります。
また様々な詭弁がまことしやかに主張されます。
たとえば「現代の奴隷は、聖書に出てくる奴隷とは違う。だから認めてもよい。」とかです。
今の時代から見ると馬鹿馬鹿しいの一語に尽きるのですが、利益関係が絡むとそうとばかりは言っておれなくなります。
同時期にアメリカでも奴隷制度が定着しつつありました。
これに対して米国メソジスト教会は沈黙を守りました。
もし英国メソジスト教会と同じ対応を米国メソジスト教会がとることが出来ていれば、後の南北戦争による奴隷制度廃止のための犠牲は不要だったわけです。
このことを考えるとき、どんな犠牲を払ってもはっきりとモノを言うことがどんなに大切なことかが分かります。
2.南アフリカ共和国における黒人隔離政策を強力にバックアップしたのが、南アフリカ改革派教会でした。
この結果、世界の改革派協議会から除名されてしまいましたが、それでも間違った神学的解釈を止めませんでした。
この国の改革派教会の神学的理解や聖書解釈は、嘘に嘘を重ね、詭弁に詭弁を混ぜるというものでした。
なぜこのようなことをしたのでしょうか?
それは有力な教会員に、黒人隔離政策を支持する者が多数いたので、牧師は正しい聖書理解を言うことができなかったのでした。
ネルソン・マンデラの時代になって、初めて謝罪と悔い改めを南アフリカ改革派教会は行いました。
3.この問題は、私たちクリスチャンに対して「聖書がいくら正しい書物であるとしても、それを受け取るクリスチャンが悪と妥協してしまうなら、何の意味もない。」ということを突きつけているのではないでしょうか。
普段クリスチャンはよく、「私たちは弱くとも神は強いから大丈夫。また私たちは間違うことがあっても、聖書は間違うことがないから大丈夫。」と言います。
しかしそうではないのです。
いくら神が強くても、聖書が正しくても、それを受け取る私たちの側に瑕疵(かし)があるなら、絶対大丈夫どころか、危険極まりない絶体絶命の大ピンチに陥ってしまうのです。
◎聖書に「あなた方の心を見張りなさい。なぜならそこから命の泉が湧くからである。」とあります。
また「目を覚ましていなさい。なぜなら花婿は突然やってくるからです。」ともあります。
失敗の経験なら教会はたくさんしてきました。
しかしその失敗から教訓を十分に学んだとは言えないようです。
なぜなら人は忘れやすい存在だからです。
しかし忘れてもよいものと、忘れてはならないものがあります。
この区別が明確でないと、「愚か者!あなたの命は今晩取り去られる。」と言われてしまう羽目に陥ってしまうのです。